■「鬼の棲み家」紆余曲折

 プロでタイトルに手が届くような活躍ができるのは、その中でも一握り。最年少記録を更新するような才能は、さらにもう一段上の頂にある。

 あまりに過酷なプロ棋士への道だが、昭和の半ばまではさらに苛烈だった。

 当時、四段に昇段できたのは東西に分かれて行われていた三段リーグの優勝者同士による東西決戦の勝者だけ。東西決戦の敗者復活戦の勝者が四段昇段できた年も何年かあったが、基本的にこのスタイルが1974年まで続いた。この時代に棋士になった代表格が、中原誠十六世名人(73)と故・米長邦雄永世棋聖だ。

「財政的に苦しかった日本将棋連盟が棋士の数を絞るために採用していた制度ですが、あまりに厳しすぎること、また経営状況が好転したことから、リーグ戦を廃止し、基準の好成績を収めれば何人でも四段に昇段できると規定も緩めたのです」(松本さん)

 羽生九段や佐藤康光将棋連盟会長(51)、永世名人資格を持つ森内俊之九段(50)ら羽生世代の強豪の多くもこの時代に次々とプロ入りを決めた。しかし80年度には8人も棋士が誕生するなど逆に数が増えすぎたとの批判もあったといい、87年に突然三段リーグが復活、現行規定に落ち着いた。

 くしくもこの制度復活で最も割を食ったのが、昇段を狙える好成績を収めていた杉本昌隆八段(52)と言われている。弟子の藤井二冠が1期で駆け抜けた三段リーグを抜けるのに、杉本八段は7期を要した。

 その後も「鬼の棲み家」と喩えられる三段リーグでは悲喜こもごもの名勝負が繰り広げられ、数々の「天才少年・少女」たちがのみ込まれていった。

 森七段は、過去の弟子たちと山下君を比較してこう話す。

「村山君は将棋が人生そのものだった。糸谷君は際どい終盤の一瞬で逆転するスリルを好む。山下君は自分の路線を開拓して、今までいなかったようなタイプの棋士になってほしいですね」

(編集部・大平誠)

AERA 2021年1月11日号より抜粋