米交流団体、ジャパン・ソサエティーが主催した「大林宣彦監督特集」でのツーショット/2015年秋、ニューヨーク(写真:ジャパン・ソサエティー(NY)(c)Ayumi Sakamoto)
米交流団体、ジャパン・ソサエティーが主催した「大林宣彦監督特集」でのツーショット/2015年秋、ニューヨーク(写真:ジャパン・ソサエティー(NY)(c)Ayumi Sakamoto)
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「海辺の映画館」は、映画の歴史と戦争・暴力の歴史を交錯させたエンターテインメント。平和に対する思いを語り続けてきた、大林監督の集大成ともいえる作品だ (c)2020「海辺の映画館─キネマの玉手箱」製作委員会/PSC
「海辺の映画館」は、映画の歴史と戦争・暴力の歴史を交錯させたエンターテインメント。平和に対する思いを語り続けてきた、大林監督の集大成ともいえる作品だ (c)2020「海辺の映画館─キネマの玉手箱」製作委員会/PSC

 大林宣彦監督の遺作「海辺の映画館」が公開中だ。がん闘病中でも、映画への情熱を失うことはなかったという。AERA 2020年8月10日-17日合併号に掲載された記事で、大林監督を支え続けた妻の恭子さんに話を聞いた。

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 コロナ禍で延期になっていた大林宣彦監督の最新作「海辺の映画館─キネマの玉手箱」が7月31日に公開を迎えた。今年4月10日、82歳で亡くなった大林監督が20年ぶりに故郷である広島・尾道で撮影し、無声映画、トーキー、アクション、ミュージカルなど、様々な映画表現を通して日本の戦争史をたどる。映画への愛と平和への願いが込められており、作中に引用される中原中也の詩も印象的だ。大林監督の妻で、プロデューサーの恭子さん(81)はこう語る。

大林恭子(以下、大林):監督はこの映画について、「中也さんに導かれて、日本の戦争史を映画にしました」と語っていましたが、それが見事に描かれました。「ねぇ、映画で僕らの未来変えて見ようよ」というメッセージが、きちんと受け継がれてほしいと思います。

 大林監督は2016年、肺がんで余命宣告を受けるが、その後も映画を撮り続けた。

大林:がんが進行していく中でも、映画に対する想いは変わりませんでした。「海辺の映画館」では通常ですと5日間くらいで終わるアフレコや音楽などの仕上げに、3週間かけていました。スタッフは心配しましたが、私は「終わりたくないのでは?」と思い、やりたいようにやってもらいました。監督はスタジオに入ると台本を広げて、セリフの変更など書き換えをしていました。伝えたいこと、やりたいことが、まだ沢山あったのだと知りました。そんな彼のことは、わかり過ぎるくらい理解できるので、私は涙する日々が続きました。

 大林監督と恭子さんは、1958年に成城大学の先輩・後輩として出会った。ベレー帽に黒いロングコート、グリーンのスカーフをしていた監督の印象は「キザな人!(笑)」だったという。大林監督は大学時代から8ミリカメラで作品を作っていたが、映画会社には入らず、自主映画を制作。「コンプレックス」(64年)、「伝説の午後・いつか見たドラキュラ」(67年)が広告会社の目にとまり、CMディレクターとして活躍。そして77年、映画「HOUSE ハウス」で商業映画デビューを果たす。

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