生徒は相手の求めている枠内で画一的にしか発想できなくなります。加えて、プレテストの記述式問題で出題された実用文は、行政の作った景観保護ガイドラインだったり生徒会の規約だったりしました。書かれているルールの範囲内で何ができるかが問われ、ルールそのものを疑うことはさせません。

 共通テストの背後には、与えられた条件に順応する、画一的な生徒を大量生産しようとするイデオロギーが働いているのではないか。疑わざるをえません。

 共通テストの英語では「4技能」の測定を主眼に、とりわけスピーキング試験の実施に重点が置かれています。実は、似たようなことが国語でも起きています。22年度施行予定の高校の新学習指導要領は共通テストと一体となった教育改革で、「読む」が軽視され、「話す」に重きが置かれています。

 例えば高校1年の国語では入学早々、みんなの前で自身をプレゼンテーションさせる授業があります。「話題のない人は話題表のなかから選びなさい」などテクニカルな指導が入ります。

 しかし入学したばかりの15歳の生徒が、気心もまだ知れない人たちに「心の琴線」に触れるようなことを話せるでしょうか。うかつなことを話せば、からかいやいじめの対象になりかねません。いきおい、当たり障りのない話をするしかないでしょう。

 国語教育でなぜ「読む」ことを大事にしてきたか。教材に仮託させ、間接的に「自身の内面」や喜怒哀楽を伝えさせるためでした。そうした大事な根幹を共通テストなどの改革の推進者はわかっていません。

 国語の記述式のもう一つの目玉である、複数の資料を読み合わせる問題形式も、いかに短時間で必要な情報を抜き出すか。「読解」ではなく「情報処理」力が問われる本末転倒ぶりです。

 共通テストの国語の記述式問題については自己採点や採点のシステムなど多くの問題が指摘されています。教育的な見地からもやめるべきです。(編集部・石田かおる)

AERA 2019年11月25日号