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今、戦後のブラックボックスが開かれる! 昭和天皇側近の手記から新たな事実も

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北野隆一AERA
手帳の内側には「拝謁記」の文字や記録した期間の日付も記されていた (c)朝日新聞社

手帳の内側には「拝謁記」の文字や記録した期間の日付も記されていた (c)朝日新聞社

敷島紡績(現・シキボウ)の高知工場で、日の丸を振る従業員の奉迎を受ける昭和天皇。田島道治宮内庁長官(左端)が後ろにつく/1950年3月23日、高知市で (c)朝日新聞社

敷島紡績(現・シキボウ)の高知工場で、日の丸を振る従業員の奉迎を受ける昭和天皇。田島道治宮内庁長官(左端)が後ろにつく/1950年3月23日、高知市で (c)朝日新聞社

田島道治(たじま・みちじ)/1885~1968、名古屋市生まれ。東京帝国大学法科大学卒業。戦後は大日本育英会会長や貴族院議員を経て1948~53年に宮内府(宮内庁)長官。退官後は日本銀行監事、ソニー会長などを務める (c)朝日新聞社

田島道治(たじま・みちじ)/1885~1968、名古屋市生まれ。東京帝国大学法科大学卒業。戦後は大日本育英会会長や貴族院議員を経て1948~53年に宮内府(宮内庁)長官。退官後は日本銀行監事、ソニー会長などを務める (c)朝日新聞社

 田島は、戦前は後藤新平・鉄道院総裁秘書や、昭和金融恐慌の処理のため設立された昭和銀行の頭取を務めるなど経済界で活躍した。

 戦後、田島を宮内府長官に任命したのは芦田均(あしだひとし)首相。芦田内閣はGHQの要請で皇室改革を進め、昭和天皇の反対を押し切って長官と侍従長を同時に代えた。『芦田均日記』などによると、南原繁(なんばらしげる)・東大総長らが長官就任を断った後、白羽の矢が立った田島は何度も固辞したが、涙ながらに懇願する芦田の熱意に押され承諾。同時に就任する侍従長として、元外交官で学習院次長の三谷隆信(みたにたかのぶ)を推した。

 田島が芦田や三谷と共通するのは、旧制第一高等学校から東京帝大に進み、一高校長だった新渡戸稲造(にとべいなぞう)の薫陶を受けたことだ。田島は大学時代に書生として新渡戸の家に住み込むほど、師として慕った。長官就任前は天皇退位論者だったが、面会を重ねる中で「退位せず責任を尽くす」のが天皇の意思だと理解し、自身も「周囲の情勢は退位を許さない」と考えた、と48年8月に芦田に伝えている。ただその後も、天皇は何度も「退位」を話題にしていたことが「拝謁記」で明らかになった。(朝日新聞編集委員・北野隆一)

AERA 2019年9月2日号より抜粋


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