「北の鉄人」と呼ばれた新日鉄釜石のスタンドの名物だった大漁旗。入場時には10本の大漁旗が翻り、スタンドでは小旗が振られた(撮影/築田純)
「北の鉄人」と呼ばれた新日鉄釜石のスタンドの名物だった大漁旗。入場時には10本の大漁旗が翻り、スタンドでは小旗が振られた(撮影/築田純)

 海と山に囲まれた風光明媚な釜石の街を、東日本大震災で津波が襲った。あれから8年。復興への支えになったのは、地元に根付いたラグビーの魂だった。

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 キックオフの時刻が近づき、スタジアムは徐々に日本代表の「桜ジャージー」色に染まっていく。岩手県釜石市の任期付き職員としてワールドカップ開催の準備を進めている長田剛さん(36)は、メインスタンドの最上段からその様子を見つめていた。目には涙がにじむ。

「この日が来ると信じて、今日までやってきました。言葉ではうまく言い表せないですね」

 9月に日本で開幕するラグビーワールドカップ(W杯)の前哨戦となる国際試合(パシフィック・ネーションズ杯)が7月27日、釜石市で行われた。釜石鵜住居(うのすまい)復興スタジアムは、東日本大震災の津波で全壊した小中学校の跡地に立つ。

 釜石市は北太平洋を望む港町だ。東日本大震災による津波で1千人を超える死者・行方不明者が出た。その半数以上の約580人が、スタジアムが建った鵜住居地区で犠牲となった。W杯の釜石開催が決まった4年前には、スタジアムがないどころか、鉄道も道路も復旧していなかった。その場所に今、大勢の人が集い、笑顔で試合開始を待っている。

 長田さんは元ラグビー選手だ。トップリーグのワールドから2009年にクラブチーム「釜石シーウェイブス」に移籍して、選手やコーチとして9年間過ごした。17年にチームとの契約が終わると、奈良の実家に帰って家業を継ぐことも考えたが、釜石に残ることを決めた。

「震災後、とても練習ができる状況じゃなくてボランティアをしていたとき、市民の人たちから、『早くラグビーでまちを盛り上げて』と言われたんです」

「鉄と魚とラグビーのまち」と呼ばれる釜石。1985年には新日鉄釜石ラグビー部が日本選手権で7連覇を果たし、凱旋パレードでは2万人が押し寄せた。親会社の事業見直しに伴い、01年に「釜石シーウェイブス」に移行。トップリーグへの昇格もなかなか果たせずにいたが、釜石市民のラグビーへの思いはまだ続いていたのだ。長田さんは「心が震えた」という。

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