「少女と風船」あらため「愛はごみ箱の中に」2018年 ロンドン、サザビーズで撮影/「少女と風船」の初出は2002年のロンドンと言われるが、その後清掃されて消滅。繰り返し登場し、おなじみのモチーフに(写真:gettyimages)
「少女と風船」あらため「愛はごみ箱の中に」2018年 ロンドン、サザビーズで撮影/「少女と風船」の初出は2002年のロンドンと言われるが、その後清掃されて消滅。繰り返し登場し、おなじみのモチーフに(写真:gettyimages)
「分離壁に描かれた少女と風船」2006年撮影/イスラエルとパレスチナを隔てる分離壁に描かれた、風船で壁を飛び越えようとする少女 (c)朝日新聞社
「分離壁に描かれた少女と風船」2006年撮影/イスラエルとパレスチナを隔てる分離壁に描かれた、風船で壁を飛び越えようとする少女 (c)朝日新聞社
「ガザの子猫」2015年 パレスチナ自治区ガザ地区で撮影/破壊された街に目を向けてほしいとの思いから、くず鉄のボールにじゃれつく子猫を描いた。かわいい(写真:gettyimages)
「ガザの子猫」2015年 パレスチナ自治区ガザ地区で撮影/破壊された街に目を向けてほしいとの思いから、くず鉄のボールにじゃれつく子猫を描いた。かわいい(写真:gettyimages)
「シリア移民の息子」2015年 カレー(フランス)の難民キャンプで撮影/難民を巡る厳しい世論に、米アップル創業者の故スティーブ・ジョブズ氏がシリア移民の子である事実をぶつけた。隣に写るのは、制作の場に居合わせた男性 (c)朝日新聞社
「シリア移民の息子」2015年 カレー(フランス)の難民キャンプで撮影/難民を巡る厳しい世論に、米アップル創業者の故スティーブ・ジョブズ氏がシリア移民の子である事実をぶつけた。隣に写るのは、制作の場に居合わせた男性 (c)朝日新聞社
「欧州旗を壊す人」 2017年/ドーバー(英国)/移民が到着するドーバーに描かれた欧州旗。英国のEU離脱を批判して、星のひとつを作業員が壊しているところが描かれている(写真:gettyimages)
「欧州旗を壊す人」 2017年/ドーバー(英国)/移民が到着するドーバーに描かれた欧州旗。英国のEU離脱を批判して、星のひとつを作業員が壊しているところが描かれている(写真:gettyimages)

 1億円超の作品がシュレッダーで切り刻まれたニュースが世界を巡った。アートなのか、それともテロなのか。英国のグラフィティ作家バンクシー、あなたはいったい、誰ですか?

【その他のバンクシーの作品はこちら】

*  *  *

 落札されたことを知らせるハンマーがオークション会場に鳴り響くと、約1億5千万円で売れたばかりの作品がパスタマシンにでもかけられたように刻まれ始めた。その瞬間、会場にいた多くの人が、あのプラカードの登場を期待したと思う。

「ドッキリ大成功!」

 違った。ここはロンドンだ。とにかく、この事件は世界を呆然(ぼうぜん)とさせ、美術史上の大事件となった。すでに暗記するほど報道されているが、まずは事の顛末をおさらいしよう。

 10月5日、サザビーズのオークション会場で切り刻まれたのは、イギリスのアーティスト、バンクシーの作品だ。正体を明かさないグラフィティ(いわゆる落書き)作家として知られる彼はオークションの翌日、インスタグラムに“犯行声明”動画を投稿。この作品がオークションにかけられる日に備えて額縁にシュレッダーを仕掛ける様子を、ピカソの「破壊衝動は創造の衝動でもある」という名言とともに紹介した。

 バンクシー本の翻訳を手がけ、2004年には本人にインタビューしたこともあるライターの鈴木沓子(とうこ)さんが、その「少女と風船」について教えてくれた。

「バンクシーの代表的モチーフのひとつです。少女が伸ばした手の先に、風船に象徴される無邪気さや希望を描きました」

 人々はそんな、ブラックじゃないバンクシーにも魅せられるのだろう。17年に電機メーカーのサムスンがイギリスでおこなった調査では、ターナーなど同国出身の居並ぶ巨匠を抑えて「イギリス人が好きなアート作品」の1位に輝いた。あのジャスティン・ビーバーも、この作品をモチーフにしたタトゥーを入れており、欧米では有名な、愛され名画であることは間違いない。

 現在オークションに出る作品は、支援者と本人との直接取引で売られたものの一部との説もあるほか、

「盗品や本人の意向に沿わずに市場に流れてしまったものも少なくありません。なのに希少価値で高値が付き高値が付けば価値が高い作品だと錯覚され、さらに価値が上がる。シュレッダーで切り刻んだのは、『そんなのおかしくない?』というメッセージに思えます」(鈴木さん)

 バンクシーの作品には、いつもメッセージが見える。今回のように美術業界を通して資本主義社会を揶揄したり、はたまたグローバリズムへの抵抗だったり。難民など声なき声への応援も多い。それも今回同様、悪ガキのピンポンダッシュレベルのユニークなやり方が目立つ。

 そんな独特な反骨精神を生んだプロフィルは……といきたいところだが、彼の場合、ロンドンから西へ約170キロ行ったブリストルという港町が故郷ということ以外、何もわかっていない。違法行為をしているため、逮捕を恐れて覆面を貫いているとの説もあるが、バンクシーに詳しい現代芸術家の「イルコモンズ」こと小田マサノリさん(52)は、こんな見方をしている。

「人物が特定されてしまうと、どうせすぐにマスメディアのゴシップ探しが始まり、作品のメッセージがぼやけてしまうことを懸念しているのでしょう」

 鈴木さんによれば、04年にインタビューした当時の彼は、30代くらいのごく普通の若者。

「公式サイトに何度もメールを送ったり、仲間のアーティストを通じて依頼して、日本の雑誌のインタビューにこぎ着けました。しゃべり始めると頭のよさが際立ってましたね。地元や仲間内で、その正体を知る人はけっこういるはずですが、この情報化社会の中で、周囲の誰もが口を閉ざして20年近くも匿名を貫いてこられたのは奇跡的」

 そんなベールに包まれたプロフィルの代わりに、アーティスト・バンクシーの歩みを見ていこう。解説してくれたのは、社会学者で東京藝術大学教授の毛利嘉孝さん(55)だ。

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