謎に包まれ、歴史に埋もれかけていたこの部隊の調査・研究を続け『陸軍中野学校と沖縄戦』(吉川弘文館)を出した、名護市教育委員会市史編さん係の川満彰(かわみつあきら)さん(58)は、最大の理由は「兵士不足」にあったと指摘する。

「44年10月に米軍がフィリピンのレイテ島に上陸すると、大本営は台湾防衛のため、沖縄に駐留していた最精鋭部隊である第9師団を台湾に移動させます。沖縄を守る部隊は減っていた。目をつけたのが、少年でした」

 川満さんによると護郷隊は「捨て石の捨て石」だったという。大本営は、沖縄を守る第32軍が壊滅すると明確にわかっていた。第32軍も自分たちは国体護持のための捨て石だとわかっていた。しかし駒となる兵隊がいない。捨て石の第32軍が、自分たちの捨て石として使うために少年たちを集めた、という意味だ。

 このゲリラ兵を組織したのが、諜報(ちょうほう)員養成機関として知られる「陸軍中野学校」の若きエリート将校たちだった。

 それまで、沖縄戦に陸軍中野学校出身者が関与していたことは沖縄戦史研究者たちによって判明していた。ただ、大本営の命を受け組織的にどのように関与していたのかはよくわからなかった。川満さんは、10年にも及ぶ元少年兵への聞き取りや調査を行うなかで、その関係を明らかにしてきた。

「沖縄に着任した陸軍中野学校出身者は42人。スパイ活動や、住民らへの宣伝活動などを行いました。さらに、本土決戦までの時間稼ぎのために沖縄本島と離島に潜伏し、地元の少年たちを猛特訓して、ゲリラ戦や情報戦などに従事させる役割でした」(川満さん)

 中野学校出身者たちは、米軍は本土攻撃に利用できる沖縄北飛行場、中飛行場を奪うため沖縄本島中部の西海岸から上陸するとにらんでいた。それを背後から襲うため集められたのが、地の利を知る沖縄本島中部から北の村々の少年たちだった。召集は44年10月、12月、翌45年1月、3月の計4回にわたって行われ、最終的に1千人近くが集められた。

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