「捨て石の捨て石」沖縄戦で招集された少年ゲリラ兵「護郷隊」の真実 (1/3) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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「捨て石の捨て石」沖縄戦で招集された少年ゲリラ兵「護郷隊」の真実

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野村昌二AERA

少年護郷隊之碑。名護小学校(名護市)隣の小高い丘に立つ。石碑には、沖縄戦で亡くなった100人近い元少年兵の名前が刻まれている(撮影/編集部・野村昌ニ)

少年護郷隊之碑。名護小学校(名護市)隣の小高い丘に立つ。石碑には、沖縄戦で亡くなった100人近い元少年兵の名前が刻まれている(撮影/編集部・野村昌ニ)

元護郷隊員 玉里勝三さん(90)/1929年生まれ。16歳の時に護郷隊に召集される。今は毎朝、寒緋桜を植えた自宅の裏山に登り、俳句を詠む。楽しみはカラオケ。「『護郷隊の歌』や『ふるさと』を歌います(笑)」(撮影/編集部・野村昌ニ)

元護郷隊員 玉里勝三さん(90)/1929年生まれ。16歳の時に護郷隊に召集される。今は毎朝、寒緋桜を植えた自宅の裏山に登り、俳句を詠む。楽しみはカラオケ。「『護郷隊の歌』や『ふるさと』を歌います(笑)」(撮影/編集部・野村昌ニ)

 沖縄に、陸軍中野学校によってゲリラ兵に仕立てられた少年たちがいた。「護郷隊」──。戦後73年、「地獄」を生き残った元少年兵の記憶は今なお消えない。

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 じっとりと体にまとわりつくような雨が降ると、沖縄県名護市に住む玉里勝三(たまざとかつぞう)さん(90)は遠い記憶がよみがえる。

「においよ。吐いてしまいそうな、耐えられないにおいよ」

 どんな動物の死体のにおいとも違う。鼻の穴の奥までむっとする腐敗臭、戦場に漂った人間の死臭。長い年月をへて記憶の細部ははがれ落ちているが、これだけは決して忘れることのない「地獄のにおい」だ。

 73年前、玉里さんは、極限の戦場にいた。「ゲリラ兵」として沖縄の山に潜み最前線で戦ったのだ。わずか16歳の少年だった。

 沖縄に暮らす人にすらあまり知られていないが、沖縄戦では14歳から18歳までの子どもたちがゲリラ兵に仕立てられ、戦場に送り込まれていた。部隊の名前は「護郷隊(ごきょうたい)」。「故郷を護(まも)る部隊」という意味が込められているとされるが、“秘密部隊”という特殊性から写真も映像も残っていない。その数、約1千人。玉里さんはその一人だ。

 3人兄弟の末っ子として名護に生まれた。国民学校(小学校)を卒業し、沖縄本島の北に浮かぶ伊江島で軍の飛行場造りに動員されていた1944年10月、召集令状が届いた。

「1億総動員」と言われ、国のために尽くすのが国民の義務だと教え込まれていた時代。玉里さんは、2人の兄が召集されて海外で戦死していたが、当然のことだと令状に従った。集合場所として指定された名護国民学校に行き、地下足袋とふんどし一つを持って入隊した。

「怖いということはなかったね。当たり前よ」

 そのころ日本はサイパン、テニアン、グアムなどで敗北が続き、フィリピン沖の海戦では飛行機ごと敵艦に体当たりする「特攻」を始めた。日に日に戦況が悪化する中、沖縄では、大本営が沖縄守備軍である第32軍の牛島満(うしじまみつる)司令官に対し、本土決戦までの時間稼ぎをするためのゲリラ戦を命じた。当時の兵役法では満17歳以上からしか召集をかけることはできなかったが44年12月、規則が変更され、「志願」という形をとれば14歳以上であれば兵士として召集できることになった。

 しかし、なぜ少年だったのか。国の未来を担う子どもたちを、なぜ戦争に利用したのか。


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