召集された少年たちは、中野学校仕込みの過酷なゲリラ戦を教え込まれた。火薬や爆弾の使い方、敵陣への夜襲訓練、爆薬を持っての体当たり訓練。靴を脱ぎ足の親指を引き金にあて銃口を口にくわえる自決訓練……。そして、マインドコントロールされていった。1人が失敗すると連帯責任として2列に向き合って並ばせ、互いに殴り合いをさせた。「一人十殺」と教え込まれ、「軍人勅諭」を暗唱できないと鉄拳が飛んだ。少年たちは、痛みや死への恐怖がなくなり、死を恐れずゲリラ戦を仕掛ける人間に仕立てられていった。

 訓練を終えると少年たちは「第一」と「第二」の2隊に分けられた。冒頭で紹介した玉里さんは第一護郷隊に送られた。第一護郷隊は名護市にそびえる標高約400メートルの多野岳に、第二護郷隊は恩納村(おんなそん)と金武町(きんちょう)にまたがる標高約360メートルの恩納岳に、それぞれ潜んで米軍の上陸に備えた。

 45年4月1日、米軍は中野学校出身者たちの予想通り、沖縄本島中部の西海岸に上陸した。そこから、「ありったけの地獄を集めた」と形容された地上戦が続く。

 恐怖、極度の緊張、飢え。圧倒的な戦力の差に、連日のように少年兵は戦死した。玉里さんによると、仲間たちは「あんまー、あんまー」と言いながら死んでいったという。「あんまー」は沖縄の言葉で「お母さん」だ。

「私たちは死ぬときは『天皇陛下万歳』と言って死ぬよう教えられていた。だけど、そう叫んで亡くなる仲間は誰もいませんでした」(玉里さん)

 45年6月23日、第32軍の牛島司令官と長勇(ちょういさむ)参謀長の自決で沖縄戦は終わった。第一護郷隊の解散は7月。沖縄戦が始まってからの4カ月間で、第一、第二護郷隊の死者は、約160人にも上った。

 先の川満さんの元護郷隊員への聞き取りによると、米軍との戦闘以外でも死んでいった少年兵たちがいたことがわかった。スパイ容疑で「処刑」されたり、自決を迫られたり、軍医に殺されたりした少年兵もいたという証言があったのだ。

 スパイ容疑で殺されたのは、集合命令に遅刻した少年兵。分隊長にスパイだと決めつけられると、周りの少年たちにカズラで目隠しをされ手を縛られ、炭焼き小屋の上に立たされた。そして分隊長の「撃て!」の合図で、3、4人が一斉に撃った。誰の弾が当たったかわからないようにするためだったという。

 こうした話を、元少年兵たちは淡々と川満さんに語った。戦場での精神状態を「妄動」だったと川満さんに語った元少年兵がいたというが、友人らが傍らで死んでいく様子を見ても何も感じなくなっていったのだ。

「元少年兵たちは自分がアメリカ兵を殺したと決して言いません。本当はわかっているはずですが、トラウマになっているのだと思います」(川満さん)

(編集部・野村昌二)

AERA 2018年7月2日号より抜粋

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野村昌二

野村昌二

ニュース週刊誌『AERA』記者。格差、貧困、マイノリティの問題を中心に、ときどきサブカルなども書いています。著書に『ぼくたちクルド人』。大切にしたのは、人が幸せに生きる権利。

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