前出のAさんはバブルが弾けるちょうど10年前の79年に高卒で、旧日本長期信用銀行系の第一証券(現三菱UFJモルガン・スタンレー証券)に入社した。配属は「市場部」。いわゆる“場立ち”としデビューを飾ったのだ。

「背が高くて声が大きかった、というだけ。当時から180センチ以上あったので後ろからでも声を張り上げれば注文が通りやすかった」(Aさん)

 当時の日本経済はすべて“人”が動かしていた。場立ちはその最前線にいた猛者たち。投資家から証券会社に入った注文は、取引所に常駐する各証券会社の担当者に伝達され、その注文伝票が場立ちに手渡された。場立ちはその伝票を片手に立会場内を奔走。売買の仲立ちを専門に行う「実栄証券」の担当者に、「別子(住友金属鉱山)成り行き5万売り!」と叫び、「1円で2万、2円で3万買った!」などと返答があれば売買が成立。直近の株価が851円だとすれば851円で2万株、852円で3万株の商いが成立した、という意味だ。

「ただ、人間だもの。ミスがしょっちゅう起こるわけ。そのたびに『カクイチ!』って呼び出しが入る。第一証券の社章が四角の中に横棒一本だったから。成り行きの絶対通さないといけない注文が通ってなかった場合は、実栄の担当者に頼み込んで東証に常駐していたディーラーに繋いでもらうんです。そのディーラーに頭を下げて、無理やり新規の注文を作ってもらっていた」

 すべてのやり取りが対人間。人間関係を築くためにAさんは毎晩のように大手証券会社や実栄証券の担当者と飲みの席や麻雀を共にしたという。当時の東証には紺のブレザーを着こんだ場立ちを含めて約3千人もの人間が寄り集まっていた。その中で身を立てるべく、泥臭い関係を築いていったのだ。兜町は金融の最前線というイメージとは程遠い、人間臭さに溢れ返っていた。

「ジンクスと縁起を担ぐ街。ラッキーなことに魂をかける人ばかりでした」

 東証金融リテラシーサポート部の千田康匡氏はこう前置きしながら、取引所の建設時のエピソードを明かす。

「1927年に横河民輔という建築家の設計で旧市場館(現本館)が竣工したのですが、“いい風が吹くように”と四方八方に扉が設置されたので、今の東証にもいくつもの扉があるんです。一方で、市場館の中の立会場はもともと3階建てにする予定だったのですが、証券会社から『バカ言うな。青天井にしろ』と猛反発を受けて、吹き抜け構造で天窓が設置されました」

 東証の“顔”といえば左右を指す二つの矢印とともに「TOKYO STOCK EXCHANGE」のパネルがかけられた東口だが、この出入り口は“ここぞ”という日に、場立ちたちが行き交っていたという。

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