「辰巳の方角(南東)にあったことから、“立つ身”から転じて縁起のいい方角とされたのです。97年に自主廃業した山一證券は東証の南口からすぐのところにありましたが、勝負の日は南口から入らずに、わざわざ東口から場立ちが入場したようです」(千田氏)

 縁起担ぎは兜町の食文化にも見られた。うなぎは“うなぎのぼり”として好んで食べられた。1949年創業の老舗うなぎ屋として証券マンに親しまれてきた「松よし」の2代目店主・江本良雄さんもこう当時を振り返る。

「80年代は前場が終わった11時にはもう行列ができていた。証券マンはせっかちでしょ。席につくかつかないかぐらいでうなぎが出てこないとダメなんだよ。昼休み後の13時半頃になると、もう夜の出前の注文が入ってた」

●符丁を使いこなして接待した証券外務員たち

 松よしのなかでも実に泥臭い人間模様が垣間見えたという。

「うちのうな重は一番安いのが2千円で、高いのが4500円。私らはその注文を符丁で告げるんです。『2』を示す符丁は『リ』だから、2千円のものは“リマル”。4500円のものは『4=月』で『5=丁』だから“ツキチョウ”。証券の外務員の人はそれを覚えて、あまりお金のないお客さんを接待するときは『リマル二つ』とか注文するの。連れてこられた人はどのうな重を注文したのかわからないでしょ。でも、私らは『上顧客じゃないんだな』ってわかるわけ(笑)」(江本さん)

 証券マンたちの姿が徐々に減り始めたのは80年代半ばのこと。82年に国内で初めて株式売買システムが稼働。33銘柄に対して導入されたのを契機に、システム化が加速。まず場立ちが排除された。前出・日本取引所グループの三輪氏が入社する2年前の88年には150ほどの立会場銘柄を残して全銘柄に対して売買システムが導入された。

「まだ、バブル崩壊の実感が乏しい時期でしたので、活気はものすごかった。そのなかで我々の仕事は正常に商いが成立しているか監視すること。売買が錯綜した場合には、笛を吹いて一時的に売買を止めるのが私の役目の一つでした。ところが力ない笛を吹くと立会場内にブーイングがこだまする。逆に相場が上り調子のときに綺麗な笛を吹くと拍手が起きる。今でも忘れられません。ソニーが9100円をつけたときの笛を吹いたのが私だった。当時の課長に『いい笛だったよ』って褒められたんです(笑)」(三輪氏)

 だが、そのころを境に兜町を活気づけていた場立ちたちはさらに姿を消していくことに。90年11月に「立会場事務合理化システム」が導入されて立会場銘柄が縮小。99年に完全に立会場と場立ち制度が廃止されたのだ。

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