明治維新から150年を記念する声が全国で聞かれる一方で、福島では「戊辰150年」ののぼりが立つ。会津には、薩長への恨みをいまだに強く持つ人も少なくない。
その原因とのひとつとされるのが、戊辰戦争で新政府軍が出したとされる「埋葬禁止」。これにより会津藩士の遺体は半年間も野ざらしにされたとして、薩長への恨みにつながっているのだ。しかし近年、新史料の発見でこれが誤りであることが明らかになった。
「戊辰戦争は150年前に起きましたが、埋葬禁止説が浮上したのはこの50年のことですから、払拭(ふっしょく)されたのも『50年ぶり』ということになります」(新史料を発見した会津若松市史研究会の野口信一副会長)
それでも会津の人たちの受け止めは複雑だ。松平容保の京都守護職時代からの積年の恨みがあり、埋葬禁止を打ち消す今回の発見だけでは長州への遺恨は収まらない、と言う人も少なくないという。
山口県(長州)出身で都内で働く40代の男性も、それぞれその土地の歴史を背負っているから長州、会津の和解は難しいとしながら、こう話す。
「明治150年に対して、戊辰150年と違った立場からの歴史を理解しようという動きは評価しています。明治100年の時と違って、日本人に余裕がでてきたということでしょうか」
先の野口氏は、真の和解には感情論ではなく歴史を学ぶことが重要だと強調する。
「会津の歴史だけでなく、長州や薩摩の歴史、その他の地方の歴史も同時に学んでいかないと歴史の真実は見えません。一方の話だけを信じていると、埋葬禁止のような事実誤認につながってしまいます」
実際、150年を機に、戊辰戦争の恩讐を超えた交流も深まりつつある。
戊辰戦争で約100日間の激戦が繰り広げられた「白河口の戦い」。この舞台となった福島県白河市には、領民が戦没者を敵味方なく弔い、盆踊りで死者の霊を慰めたのがルーツとされる「白河踊り」が伝わる。実はこの白河踊りと出だしの音程などが共通する踊りが、山口県内各地で今も舞われているのだ。戊辰戦争に参戦した長州の隊士が白河で踊りの輪に加わり、古里に持ち帰ったのが由来とも伝えられる。