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玄侑宗久に聞く現代の“死に方” 商品化する「宗教」と個人化する「死」とは

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AERA#終活

玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)/1956年生まれ。慶應大学卒業後、様々な仕事を経て僧侶に。2001年に「中陰の花」で芥川賞受賞(撮影/白岩大和)

玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)/1956年生まれ。慶應大学卒業後、様々な仕事を経て僧侶に。2001年に「中陰の花」で芥川賞受賞(撮影/白岩大和)

 そんな状況ですから「わからない未来」への不安を、今のうちに決めておこうとする人が増えるのも頷けます。守れるかどうかわからないお墓を「墓じまい」し、自分の死後のことまであれこれ指示しようとする人々が増えています。個別の墓地を片付け、永代供養墓に祭ることも各地で進んでいます。

 自分がいなくなったあとの状況の変化は、なかなか予測できないものです。それに「死」や「遺体」は、誰のものでしょうか。少なくともそれはいなくなった当人のものではないはずですが、まるで我が物のようにあらかじめ決めようとする。トラブルもよく起こるわけです。

 共同体で生きる感覚が都市部からどんどん薄れ、「死」も含めた全てが個人化している気がします。仏教や宗教関連の本はよく売れているようですが、それも個人のアイテムとして。逆に地方では「寺院消滅」という事態があちこちで進みつつあります。

 人が死に対して抱く不安に応えようとしたのが様々な宗教だと思います。天国や浄土を想定して安心しようとするのか、死後は「無」に違いないと想定して「無宗教」の立場をとるのか、それは自由です。ただどちらも「あるに違いない」「ないに違いない」という想定、思い込みを前提にしています。「あるに違いない」を「ある」という実感に育てるには、どうしても宗教的な「行」を必要とします。考え方だけ自由に選択する、というものではないのです。


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