「たけしさんのいるフロアは怖くて近づけなかった(笑)。色々な人たちがわいわい集まってきて、当時は無法地帯のような雰囲気と勢いに満ちていました」

 当時をそう振り返るのは、ニッポン放送編成部長の節丸雅矛だ。松任谷由実、福山雅治など90年代以降の数々の番組づくりに携わった。当時はフジテレビのバラエティーが全盛期で、面白さの定義が変わってきていた。

「伊集院光さんたちと『俺たちの裏はテレビだ』と言っていたのを覚えているんですけど、テレビに勝つためにどんどん新しいことをやっていった時期でしたね」

 そこで、当時としては珍しいFAXで日替わりの投稿テーマを募集。さらに、99年からは民放ラジオ局で初めてメールでお便りを受け付けた。また同年、インターネット放送を初めてスタートさせたのも同局だ。

 節丸が番組作りで意識したのは、「常に10代に向かって話すこと」だという。

「一番最初に好きになってもらうラジオ番組であり続けることを大切にしていました。僕のプロデュースではないけど、ユーミンの番組でリスナーから『ユーミンちゃん』と呼ばせたのはうまかった。当時30代半ばだったユーミンとリスナーの距離を縮めていました」(節丸)

 この頃になると、深夜放送と下ネタの構図はかなり浸透していく。節丸が担当した福山雅治のANNでも下ネタ発言が話題を呼んだが、意識したのは、鶴光を源流とした“想像させて笑える”下ネタだ。

「童貞や処女を忘れないでいよう、という話はしていました。10代の生活に向き合い、追体験すれば、必ず性の話は出る。ラジオでやるのは即物的なエロでなく『スケベ』。何でも覗いてやろうというスケベ根性の中に、男女の営みもあるんです」(同)

 この流れは、現在のパーソナリティーにも受け継がれている。火曜担当の星野源も、童貞リスナーのラジオネームを「チェリーネーム」とするなどこの系譜を汲み、「童貞コンシャス」な番組作りを続けている。(編集部・市岡ひかり

AERA 2017年10月30日号より抜粋