梓桑巷防空洞から外を見てみる。普段は暗いばかりの防空壕がイベントの主役になった=2017年4月23日(撮影/ジャーナリスト・松田良孝)
梓桑巷防空洞から外を見てみる。普段は暗いばかりの防空壕がイベントの主役になった=2017年4月23日(撮影/ジャーナリスト・松田良孝)

 日本統治期の建築や構造物をリノベーションしたり、戦後もそのまま使ったりすることが当たり前の台湾。北部を代表する港町、基隆では日本時代に掘られた防空壕を町おこしに活用しようと、若者たちが動き出している。

【写真特集】防空壕で町おこしする台湾の若者たち

 日台間を行き来した観光客は2016年に606万3千人。東日本大震災の翌年にあたる12年の2倍だ。50年間にわたった日本の植民地統治が終わって72年。アニメなどのサブカルチャーや、ラーメンなどのグルメが台湾の人たちを日本へ誘い、台湾では植民地統治期に建てられた建物のリノベーションエリアが日本人観光客を引きつける。なかには、こんなものまで?と、うなってしまうようなスポットでも再生の動きが進む。

●壕内でクイズイベント

 日本統治期の構築物が今も使われているケースは台湾では珍しくない。日本の植民地統治が終結した後、台湾を統治するためにやってきた中華民国の国民政府は、植民地統治当局や日本人の資産を接収し、日本人は原則として日本に帰還させることにした。ただ、統治の移行をスムーズに行うため、建物の多くを再利用し、「留用」と呼ばれる制度によって技術者など日本人の一部を期間限定で台湾に残す方策を採っている。

 旧台湾総督府が総統府として使われていることはよく知られている。台湾を観光すれば日本時代の建物に必ず出合うと言ってもいいくらいだ。

 台湾北部の物流拠点として発展してきた港町、基隆(キールン)。暗くて、じめじめして、ちょっと不気味で……そんなイメージがつきまとう防空壕に目を付けたのは建築を学ぶ大学院生たち。近くにある日本統治期の、これも長い間人が住まないままになってちょっと怖い感じになっていた民家の再活用に取り組むグループがドッキングして、足元を探るようにそろりと前に進みだした。

 真っ暗な穴。縦横どちらも1.8メートルほど。家族連れや若者のグループ、カップルが中をうかがうようにしながら入っていく。4月下旬の週末、基隆市内にある防空壕のひとつを開放し、クイズに答えながら中を歩くイベントが開かれた。この防空壕のすぐそばに住んでいた詩人、許梓桑(シュツサン)(1874~1945)の名前から、通称「梓桑巷防空洞(シアンファンコンドン)」という。

 懐中電灯を持っていても中はやはり暗い。水っ気もあるから足元が滑りそうだ。

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