今年もまた、ノーベル文学賞が通過していった。狂騒もさめ、今は静かにその作品と作家の軌跡をたどり直してみたい。きっかけは「風景」だ。村上春樹を歩く小さな旅に出かけよう。
賞の授与を決めたものの、肝心の対象者と連絡が取れない。2016年のノーベル文学賞は、そんな奇妙な事態に見舞われている。世界中が熱狂しているさなか、ポッカリと空いた中心にいるのはボブ・ディラン。ノーベル文学賞はこれまでパステルナークとサルトルが辞退しているが、「無視」は前代未聞である。
<「ボブ・ディランって少し聴くとすぐにわかるんです」と彼女は言った。
「ハーモニカがスティーヴィー・ワンダーより下手だから?」
彼女は笑った。彼女を笑わせるのはとても楽しかった。私にだってまだ女の子を笑わせることはできるのだ。
「そうじゃなくて声がとくべつなの」と彼女は言った。「まるで小さな子が窓に立って雨ふりをじっと見つめているような声なんです」>
(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』新潮文庫新装版下巻、289ページ)
ノーベル賞といえば毎年話題になる村上春樹は、かつて作品中でボブ・ディランについてこのように書いた。村上春樹自身はいったい何を「見つめて」きたのだろうか。
●神宮球場に降りてきた
作家としての出発点であり、ファンのあいだで「聖地」とされているのが千駄ケ谷だ。鳩森八幡神社では、ファンが集結してノーベル賞発表の瞬間にライブビューイングが行われる。近くにはかつて作家が営んでいたバー「ピーターキャット」の入っていたビルもある。店を閉めた後に毎晩、台所のテーブルで書かれたのがデビュー作『風の歌を聴け』だ。千駄ケ谷まで来たら絶対に外せないのが神宮球場。作家にとって決定的な日付が神宮球場と共にある。
<小説を書こうと思い立った日時はピンポイントで特定できる。1978年4月1日の午後一時半前後だ。その日、神宮球場の外野席で一人でビールを飲みながら野球を観戦していた。(中略)そしてその回の裏、先頭バッターのデイブ・ヒルトン(アメリカから来たばかりの新顔の若い内野手だ)がレフト線にヒットを打った。バットが速球をジャストミートする鋭い音が球場に響きわたった。ヒルトンは素速く一塁ベースをまわり、易々と二塁へと到達した。僕が「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立ったのはその瞬間のことだ。晴れわたった空と、緑色をとり戻したばかりの新しい芝生の感触と、バットの快音をまだ覚えている。そのとき空から何かが静かに舞い降りてきて、僕はそれをたしかに受け取ったのだ。>
(『走ることについて語るときに僕の語ること』文春文庫、49~50ページ)
この日からおよそ3年後、次のような文章(詩?)を書く。
<チャーリー・マニエルは
地雷源(※原文ママ)のまんなかに落ちてきた手榴弾
を取るように
ライト・
フライを取った。>
(『夢で会いましょう』共著、講談社文庫、129ページ)
未発表のまま書き継がれている(と、されているが真偽はわからない)「ヤクルト・スワローズ詩集」の中の一篇だ。デビュー前の村上春樹がその「何か」を受け取った時の様子を、チャーリー・マニエルがライト・フライを捕る時の慎重な姿に、つい重ねてみたくなるのだ。
●誰もが驚いた朗読会
この「ヤクルト・スワローズ詩集」が、わずか30人の聴衆の前で朗読されるというサプライズが昨年あった。舞台は熊本市の小さな書店。橙書店を営む田尻久子さんに話をうかがう。