携帯電話やSNSで各国に離散する親族や友人たちとつねに連絡をとりあい、また行く先々で、父親が送金したお金を引き出して生活していることなどを知ると、「難民」のステレオタイプなイメージが覆されるだろう。ユスラも言うとおり、彼らは「幸運にも難民になるだけの経済的余裕があった者たち」なのだ。思い出すのは、2001年、合衆国の同時多発テロを受けて、アフガニスタンに対する米国の報復攻撃が始まったとき、長年、アフガニスタンで支援活動を続けてきたペシャワール会の中村哲さんが語った言葉だ――「難民となれる者たちはまだしも恵まれている」。そこにいては命が危ないと分かっていても、難民にすらなれず、空爆下に留まらざるを得ない者たちがいるのだ。

 ヨーロッパに辿り着いた著者を待ち受けていたのは、ハンガリーの官憲による非人間的な仕打ちだった。2010年にハンガリーの首相に返り咲いたヴィクトル・オルバーンは、難民受け入れに寛容なEUの方針を批判し、ハンガリーにおける「難民ゼロ」「移民ゼロ」を政策として唱え、その排外主義で国民の人気を得ている人物だ。2018年の選挙では、「移民はイスラームの侵略者。イスラームの侵略からヨーロッパを護る」と主張して勝利を収め、政権は連続三期目に入った。こうした排外主義は、ハンガリーに限らない。難民の大量流入を口実に、反難民、反移民、反ムスリムを掲げる右派政党が、EU各地で躍進している。ユスラは、自分を応援してくれる者たちとの出会いによって五輪出場を果たしたが、いま欧州では、このように難民を積極的に受け入れ、同じ社会で生きる同じ人間として、彼らが生きていくことを支援していこうとする者たちと、難民を、自分たちを脅かす侵略者として、徹底的に不寛容であろうとする者たちとのあいだの対立が深まっている。

 日本はどうか。日本の難民認定率は0.2パーセント。故国での迫害を証明できず、難民認定されなかった者は強制送還を前提に入管の施設に収容される。著者がハンガリーで拘留された家畜小屋に較べれば清潔で近代的な施設だが、長期に及ぶ拘禁生活で精神を病み、自殺する者たちもいる。収容を免れても、仮放免という身分では就労もできず、自由な移動もままならない。いずれにせよ、自由と尊厳を奪われた生活を強いられていることに変わりはない。ここ日本にも、無数のユスラたちがいるのだ。
「私たちも同じ人間です!」本書で繰り返されるユスラの叫びに私たちが聞き取るべきは、そこにこだまする、私たちの社会のユスラたちの叫びである。