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中国の著名作家、村上春樹を絶賛「超越した尊敬の念」

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AERA#村上春樹

 村上春樹さんが朝日新聞に寄せた東アジアの領土問題をめぐるエッセーが、中国語に訳され、中国で共感を呼んでいる。エッセーを読んだ中国の著名作家・閻連科(イエンリィエンクー)が、中国社会の今と自らの思いを綴った。

*  *  *
 村上春樹氏の「安酒の酔いに似ている」という時宜を得た文章を読んで、彼がエルサレム賞受賞時に発表した「常に卵の側に」という荘重な言葉同様、感慨深く、彼に対して文学を超越した尊敬の念を抱いた。これより前にも、大江健三郎氏の現在の領土問題に関する見解と談論を中国でも読むことができ、この尊老に対する尊敬がますます深まった。

 日本の作家は、率先して両国及び、(弾き方次第でどんな音が出るかわからない)琴線のような東アジア情勢にかかわる明確な洞察、理性的な見解を表明し、知識分子としての人格および文章を書く者としての非凡さに尊敬の念を抱かせる。それに比べ、私は一人の中国の作家として、あまりに鈍感であり、及ばない自分を恥ずかしく思う。

 村上氏が言及した東アジア文化、文学圏が形成されるまでの難しさと大変さは、私もよくわかっている。しかし、文化、文学は、歴史と現実の前では常にこんなにも弱く、風が吹いたらひとたまりもないのである。歴史的に、両国の領土に関する波風が立つたびに、文学と文化は秋蝉のごとく元気がなくなり、大家族における若い嫁のように、最初に打撃を受け、傷ついてきた。世界の多くの国と民族が特別なある時期においては、文化と文学は人前に顔をさらけ出すことを求められ、高く掲げられた紅い提灯のように人の気を引き、目立つことになるが、「時宜を得ない」ときには、最初に取り外され、人気(ひとけ)のない隅っこに放置される。

 村上氏や日本の作家の本が、時局ゆえに中国の書店の本棚から撤去されていたことは、この文章を読んで知って驚いた。一昨日、日本から来たジャーナリストの友人と万聖書苑(清華大学近くの書店)で会った時には、日本文学はこれまでと同じように並んでいた。しかし、村上氏が言及したような事実は中国では間違いなく起こり得ると、私は信じる。 

 中国はとても広く、多くの人々が毎日苛立ちの中で生活しているが、なぜ、誰のためにそんなに苛立っているのか、彼ら自身も説明することはできない。そんな苛立ちは、常にじりじりとした苦痛の中で、排泄できる窓と道を待っている。

 こんな状況だからこそ、あのデモにおける、あなたたち日本人だけでなく、それ以上に私たち中国人をも恥じ入らせる打ち壊しが起こった。しかし、中国の作家として、あの破壊者たちに心の底から憤りを感じる一方で、彼らの心の中のやるせなさと、多くの場合のよるべなさも理解できる。だから、日本書籍を本棚から撤去した書店のことも、でたらめで間違っていることだと心の中ではわかってはいるが、書店の店員のある種の憂慮も、またいくらかは理解できるのだ。

「現在の中国では、どんなことも起こり得る!」

 私は文学の視点からいつもこんなことを口にするが、同時に心の中では、やるせない苦笑いと涙を浮かべている。

 今日の中日の領土問題の騒ぎと紛糾に直面し、私は執筆の手を完全に止め、日々さらに多くのルートから届くかもしれないニュースに関心を払っていた。より理性的な分析と声を聞きたくて仕方がなかった。もちろん、知識人たる作家たちのこの問題に対する見解と言論を切に望んだ。ベッドに横たわり、黙って祈ることさえあった。いかなることも、みな君たちの意思によって起こっているのだから、いかなることがあろうと、君たちの意思でいま一度あの、人々に塗炭の苦しみをなめさせる銃声と砲撃を引き起こすようなことはしてくれるな、と。

 戦争はあまりに恐ろしい災難である。多くの民衆にとって、戦争にいわゆる勝ち負けなどない。戦争が起これば、庶民である人々は、いつだって負け組でなくてはならない。死と墓。それが、戦争が普通の人々に残す帰結なのだ。あの第2次大戦の教訓は、今日でもまだ世界中のやさしくデリケートな心の中で、血のように赤いままである。

 私は何度も繰り返し考え、問うた。あの「切るに切れない、どうにもできない」島が、なぜ誰もが抱え込んだら放さない火の玉になり得るのか? この火の玉の激しい炎を消すことが、誰にできる? 政治家たちに、この火の玉を横に置き、腰をおろして冷たい茶を飲み、静かに魂の会話をさせることが、誰にできる? 理性!理性!理性の声のほかにない。

 今このとき、理性の声がいかに貴重で重要であるか。もしも、中国、日本、韓国など東アジアの国々の知識人が、憤怒でも感情的にでもなく、対岸の火事を冷淡に傍観するのでもなく、みな立ちあがって理性的に話をしたら、人々の感情をいくらか落ち着かせ、領土あるいは領土争いを口実に激憤している人々にも、一杯の冷たい茶を差し出すことができるかもしれない。──作家あるいは知識人が、雑然と乱れた社会においていかに弱く無力であるかを、私は身にしみて感じてはいるが──努力してこうすれば、知識人と作家たちにもようやく急場に役に立つ時が来たというものである。

 8月初め、私は新しい長編小説の初稿を書き終えた。その物語の後半部分に満ちているのは、あの非理性的な混乱の、ばかばかしさと恐ろしさである。物語を最後に書いたのは、現在──まさに中国と日本の間に起こっていることだ。要するに、今日、我々が懸念していることと目にしたものである。私は自分の書いたものに、バツの悪い思いを味わっている。この小説の非理性的な予言と寓言にではなく、私の浅はかさと薄弱ゆえに。この小説の結末を、あらためてどのように処理するかは今はまだわからないが、私がはっきりと感じたのは、中国であろうと日本であろうと、さらに東アジアの国々、ひいては世界の多くの国において、知識人の理性が、その国、民族の今日と明日の社会の発展のバックボーンとならなければ、悲劇と落とし穴はいつでも民族と庶民の足もとに現れるものであり、毎日その国のあらゆる家庭のどこかの片隅に埋もれるものだということである。

 本音を言えば、領土、政治および軍事に関して、私はほとんど「白痴」である。しかし、中国の、アジアの、及び世界の文学と文化に対する愛は、私の敬虔さと誠意は、間違いなくあの一途に国土面積に夢中になっている、あるいは口実にしている人々を超越しているに違いない。

 私はいつも考えている。ひとつの国家、ひとつの民族の、文化、文学が冷遇され消滅するとき、面積などなんの意味があるというのか? 中国の作家として、政治は政治に帰し、文化は文化に帰すことを、これほどまでに切に望んでいる。政治が不穏であるとき、いかなることがあろうと、まず文化と文学という世界各国の人々の心と血管と蔓を互いにつなげる根を絞め殺してはならない。つまるところ、文化と文学は人類存在のもっとも深い部分の根であり、中でも、中日両国及び東アジアの人々が互いに愛しあうための重要な血管なのである。

作家・閻連科
翻訳・泉京鹿

AERA 2012年10月15日号


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