卒業式の名スピーチといえば、2005年6月12日に米国スタンフォード大学の卒業式で、Apple社の創業者スティーブ・ジョブズ氏が披露した約14分半の「伝説のスピーチ」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。一方、1969年刊行の『スローターハウス5』が世界的な賞賛を得たことでも知られる作家・カート・ヴォネガットも、卒業式のスピーチ役としてアメリカで名高い人物だったといいます。



 ヴォネガットは、卒業生たちにどのようなことを語ったのでしょうか。本書『これで駄目なら』には、小説家・円城塔さんによる翻訳のもと、1978年から2004年にかけて行われたヴォネガットによる9つの講演が収められています。



 さまざまなテーマのもと語られていく講演ですが、ヴォネガットが繰り返しその重要性を説くのは、教師たちへの感謝、大きくゆるやかな家族関係を築くこと、そして日々の暮らしの中でのささやかな素晴しい瞬間に気づくこと。



 自らの叔父が教えてくれたこととして、次のようなエピソードを語ります。



"彼が言うには、物事が本当にうまくいっているそのときに、ちゃんと気づかなくちゃいけない。偉大な勝利の話じゃなくて、ほんのささやかな出来事のことだ。木陰でレモネードを飲むときみたいな。パンの焼ける匂いとかね。魚釣り。夜、外に立って、コンサートホールから聞こえてくる音楽に耳を澄ませるとき。うむ。キスのあとなんていうのはどうかね。彼はそういうときにはこう声に出すことが大切だと言った。「これで駄目なら、どうしろって?」"



 人生には何が必要なのか、価値あるものとは何なのかについて、芸術、社会、政治、自身の経験といった、あらゆる例を挙げながらわかりやすく卒業生たちに語りかけていきます。



「話すときも書くときも、ヴォネガットはいつも平易な言葉と言い回しを用いて、誰もが感じてはいるもののうまく言えないでいることや内面を的確に表現し、先入観を揺さぶり、物事を違う角度から見ることができるようにしてくれる」(本書より)というヴォネガットの言葉の数々。



 その声に耳を傾けてみれば、この春、新たな門出を迎えた方々はもちろん、卒業から長らく時を経た方々にも響いてくるものがあるはずです。