帰国後の記者会見で笑顔を見せる栗山監督=3月23日、千葉県成田市
帰国後の記者会見で笑顔を見せる栗山監督=3月23日、千葉県成田市

 ピッチャー・大谷翔平の奪三振で日本優勝──。劇的なラストで「野球の神様が脚本を書いた」とまでいわれたWBC第5回大会。注目を浴びたのは栗山英樹監督の采配だ。苦労続きだった現役時代の経験が生きているという。

【写真】「やっぱり“侍ジャパン”に選んでほしかった投手」がこちら

*  *  *

 近い将来、多くの日本人選手がメジャーリーグで活躍する時代が訪れる。そんなことを口にすれば周囲から怪訝な表情を向けられたであろう1983年。ひとりの大学生がヤクルトスワローズの入団テストを受けた。

 そして彼は、現在は制度として存在しない「ドラフト外」という形でプロ野球選手となった。

 彼の名は栗山英樹。当時、ドラフト外でのプロ入りは珍しいことではなかったが、その経歴は人々を驚かせた。

 国立大学卒。それも教員養成機関である東京学芸大学出身。もちろん「先人」はいない。誰の足跡もついていない道に栗山は飛び込んだ。

 大学時代には投手として活躍した時期もあったが、右ヒジを痛め野手に転向。ヤクルトには内野手(遊撃手)として入団した。しかし、その守備力はプロの1軍レベルからは乖離していた。

「栗山さんが入団してまもない頃の試合だったと思うんですが、守備で大きなミスをしたことがあって。当時、2軍監督だった内藤(博文)さんのノックを泥だらけになりながら受けていた姿をよく覚えています」

 そう回顧するのはヤクルトでは栗山の1期先輩にあたる阿井英二郎。1982年の秋、早実高の荒木大輔が1位指名されたドラフト会議で、阿井は投手として3位指名を受け入団。ただし、阿井は高校(東京農大二高)からのプロ入り。学年は栗山の三つ下となる。

「新人の頃の栗山さんは決して目立つ選手ではなかった」と阿井。加えてプロ2年目からは病魔に苦しめられた。

 それが内耳の疾患であるメニエール病。めまいや立ちくらみが試合中の栗山に襲いかかる。

「合宿所で栗山さんの部屋をのぞいてみると布団の中で、それでもめまいがして、顔も真っ青で、もうどうすることもできないんだと」(阿井)

次のページ