時には入院生活も強いられたが、栗山は歩みを止めなかった。外野手への転向。さらにはスイッチヒッターへの挑戦。すると努力が結実する。1988年、規定打席には33打席足りなかったが1軍で打率3割3分1厘を記録。翌89年には初のゴールデングラブ賞にも輝いた。中堅手としてのアグレッシブな守備は見る者に強烈な印象を残した。

 ところが、栗山は勲章を授かったその1年後、1990年限りで引退した。右ヒジの状態も悪化。肉体が発する悲鳴に栗山は従った。

 7年間の現役生活。栗山はリーグ優勝はおろかAクラスさえ一度も経験できなかった。1980年代のヤクルト。最下位には計4度甘んじるなど、ただただ弱かった。

 頂点に立つためのノウハウを会得できずにユニホームを脱いだ栗山。そんな男が侍ジャパンの指揮官となってチームを世界一へと導いた。

 1986年には自己最多の9勝をマークしたが、やはり優勝とは無縁のまま1992年に移籍先の千葉ロッテで現役生活を終えた阿井は言う。

「80年代に弱いヤクルトでプレーしたことが、結果的にではありますが今回のWBCでプラスに働いたのだと思います。栗山さんも私も選手としての成功体験がないから自身の経験論では語ることができない。過去の成功体験や経験則を排除したところが今回の日本代表の特徴だと思います」

 過去、WBCで日本代表を率いたのは王貞治を皮切りに原辰徳、山本浩二、小久保裕紀。五輪に目を向ければアテネの長嶋茂雄(本戦では中畑清が代行)、北京の星野仙一、そして東京大会の稲葉篤紀。いずれも現役時代に輝かしい実績を残し、優勝経験もある。そういう人物でなければ日本代表をまとめることができない。それが従来は日本の主流だった。

 だが今回、歴代のトップダウン型とは一線を画す栗山が風穴を開けた。経験に縛られない采配。象徴的な場面はアメリカとの決勝戦、日本チームの7投手による継投策だったと阿井は語る。

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