首相にズバッと切り込んできたジャーナリスト、田原総一朗氏の「通信簿」は今回、宮沢喜一氏。戦後政治の舞台裏も知り尽くす護憲派は、田原氏とのテレビでのやりとりで、皮肉にも「55年体制」最後の首相となった。(一部敬称略)
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「どうしてもこの国会でやらないといけない。私はやりますから」
1993年5月31日、テレビ朝日の特別番組「総理と語る」で、一対一で向き合った首相の宮沢喜一が、衆議院の選挙制度を改正すると断言した。
当時の中選挙区制は、一つの選挙区で同じ政党の議員同士も争うため“金権政治”につながりやすい。だから僕は、小選挙区制に変えるべきだと考えていた。政界を巻き込んだリクルート事件などもあったから、選挙制度を改正して政治改革を断行すべきだと質問をぶつけた。
そうしたら宮沢が「選挙制度を改正する」と言ったんだ。これ、テレビの本番ですよ。
だけど、総理大臣が「改正する」と言っても、いつ改正するかはわからない。だから僕は「いつ改正するのか?」と詰め寄った。
すると冒頭のように、開会中の通常国会で責任を持ってやると言い切った。
「本当か」
「私はウソは申しません」。そんなふうなやりとりをしたかと思う。
ところが、選挙制度改正は自民党の中で反対が強かった。結局、改正はできなくて、責任を追及する野党が宮沢内閣の不信任案を出す。これに自民の小沢一郎や羽田孜らが賛成して、不信任案を可決。宮沢内閣が終わってしまう。
だから、政権を潰したきっかけは僕にある。実はテレビ番組で権力者を厳しく問い詰めて、宮沢をはじめ海部俊樹、橋本龍太郎の3人の首相を失脚させたの。ただ、3人失脚させても政治があまり変わらなかったから、僕はテレビで厳しく問い詰める前に「本気でこういうことをやれ」とか、「こういうことだけはやるな」とか、政治家にはっきり言うようになった。
その後に誕生した細川護熙内閣で選挙制度改正がなされたけれど、今思うと、選挙制度改正は失敗だったと思う。