芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、「成長」について。

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 飽きた! 絵を描くのに飽きた。3歳から描き始めて82年間、ほぼ毎日のように描いている。なぜ飽きたのかわからないけれど飽きたのである。

 ところがニーチェは飽きるのは自分自身が成長し続けている人は常に自分が変わるから飽きないという。「そうかな?」 僕はもともと性格が飽きっぽいから、作品を描いても次々変化する。同じ作業が長く続かない。すぐ飽きるので、常に変化してしまう。変化するからまた描く。ニーチェは飽きるのは成長が止まったからだと言いたいようだ。人間は、ニーチェの言うようにそんなに成長を目的に生きているとは思わない。人間はもともと生きるのに目的など持つ必要がないと思う。

 ニーチェのいうように成長し続ける必要はあるのか? 彼のいう成長って一体何なのか。高い段階に発展して長足の進歩を遂げて一人前の状態になることか。このように社会的に成功する人間のことを言っているとは思わないけれど、進歩することを言っているのだろう。だけど人間はいつか成長が止まるというか、別に成長を目的とする必要のない人生観を持つ時が来るはずだ。ニーチェのように人間として成長を続けている人は、自分が常に変わるのだから飽きないといっているのである。ああ、シンドー。ニーチェは生を肯定する人だが、彼は55歳という若さで死んでいるので、老齢の人間の変化は知らない。まあ55歳ぐらいまでは成長を目的とした生き方でいいかも知れないけれど、85歳にもなると、長い間やってきたことに飽きてもおかしくない。むしろその方が自然の摂理ではないかと思う。

 この年齢になってもまだ成長を視野に入れて生きる人もいなくはないかも知れないが、むしろ飽きる方が自然体であると思う。飽きてのちの変化の止まった人生の味わい方の方が楽しいのではないだろうか。飽きないで老後をつっ走る人生を送る人もたまにいるかも知れないが、むしろニーチェの反対の生き方の中にこそニーチェのいう生の肯定があるように思う。

 セトウチさんのように、百歳を目前にまだ長篇が二、三本書けそうな気がするとおっしゃる意欲的な作家もいます。さらに、生まれ変わっても今生と同じ人生を反復したいとも。それこそ、よう飽きませんねえ、と言いたいところであるが、果たして向こうでも執筆されているのだろうか。僕の描くのが飽きたという話は、往復書簡でも何度か、セトウチさんの「百歳、百歳」にはかなわないとしてもかなり連発してきたので読者の中にはまた始まったかと思う人もいらっしゃるかも知れませんが、年寄りは同じことを何度も何度も語るものです。ニーチェに言わせれば成長が止まって変化がないと叱られるかも知れませんねえ。

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横尾忠則

横尾忠則

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。

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