村治佳織 (撮影/写真部・戸嶋日菜乃)
村治佳織 (撮影/写真部・戸嶋日菜乃)

「音に揺らぎを加えるビブラートという手法があるんですが、子供の頃は、どうしても肩に力が入って頑張っちゃう。つい緊張してうまくできなかったんですが、数年間お休みしたことで、肩の力、手首の力、指の力が抜けて、自然にできるようになった。これは意外な発見でした」

 ビブラートがラクにできるようになった後の曲、できる前の曲の両方が、ベストアルバムには収録されている。「そのときしか弾けない音があるので、その辺も楽しんでいただけたら」と微笑んだ。

「デビューするまで海外に行ったことがなかった私は、デビューアルバムでヨーロッパの曲を弾くとき、その街のことを想像することしかできませんでした。でも、当時の自分の演奏を聴くと、人間の想像力ってすごいなぁ、なんて思うんです。今回のアルバムにも、04年頃の演奏が入っていて、今弾いている感じとは違うけれど、ちゃんと過去と未来をつなぐものになっていると思います」

 村治さん自身、音楽で旅をしているのは、場所以上に時間なのだという。言葉がない器楽曲というのは、言葉がないからこそ、容易に、違う世界へと旅することができる。

「クラシックって分業制ではないので、一人の作曲家が、心を込めて紡いだものを、一人の演奏家が聴衆に届ける。精神と音楽の関係性が濃いんです。人に受け入れられようとして書かれたものではなく、作曲家の宗教心からだったり、誰かのために書かずにいられなかったり。その背景にたくさんのストーリーがあって、そこに思いを馳せることで、心が清められる。エンターテインメントは人を元気にするものですが、クラシックは、普遍的な何かに触れられる瞬間があります。この間、IT関係の人と話していたら、『100年先の未来のことも、100年前の芸術のことも考えたことがない』とおっしゃって、芸術の時間の捉え方に驚かれましたけど(笑)」

(菊地陽子 構成/長沢明)

村治佳織(むらじ・かおり)/東京都出身。1993年、デビューCD「エスプレッシーヴォ」をリリース。翌年、日本フィルハーモニー交響楽団と共演し、協奏曲デビュー。97年、パリのエコール・ノルマルに留学。2003年、英国の名門クラシックレーベル、デッカ・レコードと日本人として初の長期専属契約を結ぶ。これまでに出光音楽賞、村松賞、ホテルオークラ音楽賞、2度の日本ゴールドディスク大賞など、受賞歴多数。

週刊朝日  2021年12月3日号より抜粋