絵も同じで、描く意欲があるとまだダメですね。僕もいい加減に描くことに飽きているんですが、まだほんの少し好奇心が残っているんです。好奇心がある間はまだ一人前ではないです。僕の好奇心は、飽きた、あゝ描きたくないなあ、という気持ちで描きながら、イヤイヤ描いた絵って、どんな絵になるやろ。というそんな絵を見てみたいと思って描いているんですが、この見たいという気持ちがすでに好奇心なんです。このことに無関心になって、初めて画家になれるんですがそれを見てみたいという好奇心があるので、「諦念の絵画」とは言えません。僕のこれからの人生の楽しみというのは、この好奇心抜きで、ただ描くために描いているという境地になることです。ほな、サイナラ。

■瀬戸内寂聴「今更、後悔も懺悔もありません」

 ヨコオさん

 今年もはや、四月が終わりましたね。

 月日のたつのが何と速くなったこと!

 つまり、死への速さが、刻々速度を増している、ということです。こうなると、死ぬことには全く怖れも、脅えも、ありません。

 お釈迦様は、亡くなる前に、従者のアーナンダに、

「自分の体は、こわれた部分を革ひもでつなぎとめて、やっと形を保っている車のようなものだ。」

 と、おっしゃったそうですが、お釈迦様でなくたって、百歳近くになった人間は、だれしもが、そんなふうに思うでしょう。

 私も、毎日、毎朝、つくづくそう思って、今日も生きているのかと、まずはあくびがでてきます。好きなことをし尽くして、今更、後悔も懺悔もありません。人間がもともと、いい加減なので、百年も長生きした間には、みっともないことも、人間としてしてはならないことも、あれこれしてしまいましたが、その罰を、死んだらたっぷり受けるのかと思うと、ちょっと死に対してひるむものがあります。

 が、やってしまったことは、今更後悔しても間に合いません。

 五十一歳で出家して、唯一、自慢だった長い髪を、ばっさり切り取ってしまいましたが、それも馴れたら、毎朝、一番安いかみそりで、自分の頭をバリバリ剃ってしまうと、さっぱりして。ヘアスタイルで毎朝、悩むこともなく、これが自分に一番似合ったヘアスタイルだったのだと満足しています。

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