【追悼】橋田壽賀子さん 泉ピン子「看取りの時」「遺言の内容」を明かす (2/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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【追悼】橋田壽賀子さん 泉ピン子「看取りの時」「遺言の内容」を明かす

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橋田壽賀子さん (撮影/門間新弥)

橋田壽賀子さん (撮影/門間新弥)

「おしん」の撮影現場での橋田さん(左)と泉さん(1983年1月) (提供)

「おしん」の撮影現場での橋田さん(左)と泉さん(1983年1月) (提供)

 それからママはスーッと静かに目を閉じた。私にはまさに眠るように息を引き取った、と見えました。

 ママは他人に白髪を見られるのを嫌がっていました。だから、医師が来て死亡確認をしてから私が黒く染めてきれいに化粧をしてあげました。晩年のママは化粧をほとんどしなかった。化粧道具を探したら私が20年前にあげた口紅をまだ持っていたの。クルーズ旅行や正月に必ず身につけていた、橋田文化財団を設立した時に作ったお気に入りの松竹梅のドレスを着せて、旅立たせました。

 日頃、ママは「死んでも悲しまないでいい。千の風になっているんだから。あなたのまわりにいるから」と言っていた。だから「千の風になって」の曲を部屋に流して。お手伝いさんたちが歌いだしたので、私も歌いました。

 ママと初めて会ったのはもうずっと前、私がまだ20代だったはず。確か父ちゃん(橋田さんの夫、岩崎嘉一さん)から、「壽賀子、ピン子をよろしく」と紹介してもらったと思う。1978年のNHKドラマ「夫婦」に出た後、「あんたと一緒にやると視聴率が取れる」と言われた。

 しばらくしてNHKでばったり会った時、「お姫さまをやらない?」と声をかけてもらって「おんな太閤記」に。そしてその打ち上げで「おしん」の話をされました。朝ドラには乱暴に出番をカットされた嫌な経験があって、私は最初「朝ドラには出ない」と言ったら、

「おしんの母親だから絶対にカットされない」

 ママは口減らしのために子どもを堕す場面を書きたいと、その時言っていました。戦争のために生まれる貧しさや不平等さを書きたかったのだと思います。台本を読んだら「これは当たるぞ」と思いました。女性の側から戦争を描いたドラマはママが最初じゃないかしら。本当にすごい人だと思います。

 それ以降、ママのドラマにはほとんど出たし、私の代表作は全部ママのドラマ。40年以上にわたる友であり大恩人です。よくケンカもしたけれど、私にとっては母でありいちばんの理解者でした。


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