うちのスタッフたちは、私の新語にすでに馴(な)れきって、私がそれを口実に、仕事を遅らせたり、昼過ぎまで起きなかったりしても、「ハイ! 百婆さん、そこに居たら掃除の邪魔になります」と、電気掃除機の柄を容赦なく、私目掛けて掃きつけてきます。

 編集者も、もはや原稿の遅れの理由に、「何しろ、百になったからねえ…」と言いかけても、聞(きこ)えなかったふりをして、冷たいさいそくの口調をゆるめたりはしてくれません。百歳なんて、この地球では、もう珍しい出来事ではなくなっています。新聞の死亡通知に、故人の年齢が百いくつとあっても、「あ、そう」と、口の中でつぶやきもしません。

 でも、まあ、百になってみてごらんなさい。ちょっと、いい気持(きもち)ですよ!!

 私はもう、これから死んでも、百いくつと逢(あ)う人ごとに言うつもりです。

 ところで、この往復書簡はよくつづきますね。天才の気まぐれのヨコオさんがつづけるのも不思議なら、飽きっぽい代表選手の私が、黙々とつづけているのも、もっと不思議です。

 今年こそヨコオさんに倣って日記をつけようと大決心をしたのに、一日だけ長々書いて、二日からは、頁(ページ)は真白です。この飽きっぽさ名人の私が、原稿を書くことだけは、七十年近くつづいているのが不思議です。大人になったら小説家になろうとは、誰にすすめられたわけでなく、小学校の二年生あたりから、はっきり決めていました。

 その頃の小学校は、二年生から「綴(つづ)り方」の時間があったのです。私は「綴り方」が大好きで、いつも、先生が私の綴り方をほめてくれていました。この先生がお産で学校を休み、代(かわ)りにどこかの若い先生が来るようになりました。

 この先生は、私の綴り方を見たとたん、私を教員室に呼びつけて、どの本から、この文章を盗んできたかと叱りつけました。こんなりっぱな文章が、二年生のお前に書ける筈(はず)はないと責めるのです。私は泣きだして教員室を飛び出し、走って五、六分のわが家に駆け込み、口惜しさを泣いて母に訴えました。聞き終わるなり、母は割烹着(かっぽうぎ)をつけたまま、私の手を取って小学校へ走り、教員室で若い先生に噛(か)みつきました。「うちの子は生(うま)れつき文才に恵まれて、こんな綴り方くらいお茶の子さいさい。将来は小説家になるつもりでいる」とわめく母を見て、私の将来は決(きま)りました。この母が生れつきそそっかしくて、徳島が空襲された時、日本はもう負けたと、早合点して、防空壕(ごう)から出ず、五十一歳で焼死してしまったのです。近くあの世で逢ったら、「百まで生きるなんて、何と不細工な!!」と笑われることでしょう。はい、では、またね。

週刊朝日  2021年1月29日号