セトウチさんの百歳目前も驚きますが、僕はもう歳を忘れることにしました。セトウチさんとは競えませんからね。もう、歳のこと言わんことにしました。死ぬ時は何歳で死んでも百歳だと思いましょう。魂がこの世に肉体化した時から数えると、46億年です。地球とどっこいどっこいの年齢です。そう思えば、肉体年齢はあってないようなものです。人間は肉体年齢にしばられているから、年齢を気にするんです。だから、逆にそこに芸術が発生するのかも知れませんねえ。芸術の発生のために人間には年齢が必要なのかも知れませんが、死んだら人間の作った芸術なんて、ちっぽけなもので、死者から見ればどうでもええことだと思いますよ。

 まして、世の中の出来事を白黒で論じようとしていることが、何ほどの役に立つんですかね。死んだ時に問われるのはそのような思想や理屈ではなく、自分がどう生きたかという小さい問題が意外と向こうでは大きい問題として評価されるんじゃないでしょうか。ダンテの『神曲』でダンテが、地獄、煉獄(れんごく)を旅させられながら巡る時、生前、社会的に功績を残した人が、意外と自分のエゴで地獄のどん底で苦しめられていたりしているけれど、あれが比喩だとしても笑えないリアリティがありますよね。と考えると、今年もコロナと共生共存しながら、ほどほどに生きていければ、よしとするしかないんじゃないでしょうか。となるとラテン的極楽トンボで生きたいと思います。今日はこの辺で。

■瀬戸内寂聴「百になってみてごらんなさい いい気持よ」

 ヨコオさん

 新しい年が明け、早くも一か月が過ぎようとしています。京都は今年は無闇(むやみ)に寒くて、朝、庭が雪で真白(まっしろ)になっている日が多いです。

 奥嵯峨と呼ばれるこのあたりの寒気はきつく、数え百歳の年寄には、さすがに応えます。今年に入って、私は二言目には「百になったから…」を口癖にしています。大正十一年、千九百二十二年生まれの私は、今年数えで百歳になったのですよ。まさかね、私が百歳なんて!!

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