ワシ(西脇弁でガラ悪いけどすんまへんなあ)が日記を書き始めたんは、三島さんの自決の10カ月程前からでんねん。ちゃう、もうちょっと前からやで。せやったかな。最近のワシの日記が西脇弁やゆうのは、だんだん言葉が出んようになって、昔の子供の頃の西脇弁みたいになってきたので、ほな一層のこと西脇弁にするわ、でそうなったんや。その方が素直に気持(きもち)が出せるしなあ。子供の頃は気分で生きとったからやな。大人になると気分を忘れて理屈で物ゆうようになるさかいやからなあ。せやけど、西脇弁で書くと文字数が多(お)おなって、情報量がうんと少なくなるなあ。情報量が少ない方が生きやすいやん。そりゃそうや。年取ると記憶も悪うなるし、頭も身体もボケるしなあ。ボケた方が長生きできるで。そんなんゆうたら長生きのセトウチさんに叱られへんか。なんで叱られるんや。ボケるということはやな、悟るということなんやで。

 耳は難聴やし、目は老眼と近眼でボケたままや。手は腱鞘(けんしょう)炎で、小さい絵が描けへんようになったし、鼻は年中花粉症やし、咽(のど)は喘息やし、口は悪うなるし、五感全滅や。ほんなら第六感しかないんか。せや、だんだん神の声しか聞こえへんようになるかもわからんでえ。ほんなら巫女(みこ)やんか。せや、巫男や。ハッハッハッハッ。まあ、アホになる修行や思ってんねん。これがワシのなるようになる運命やと思うと嬉しくなるんや。こうして自分の原郷に戻って行くんやろなあ。なんや、そのゲンキョーゆうのは? まあ、魂のふるさとやと思えばええんや。人は皆んな、原郷から出て原郷へ戻るんや。

 ところで、なんで日記を書くんや。そんなん知らんわ。書きたいから書くんちゃうか。まあ、もうちょっと小難しくゆうとやな、ワシのことをワシ以上によう知っとるのは神だけや。そんな神の視点から自分を見ることで神と同一化することや。それがつまり日記や。せやからウソはつかれへん。正直になるしかないやろ。ええ自分も悪い自分も神はお見通しや。そのお見通しやゆうことが、つまり日記ちゃうか。ウーン、わかったような、わからんような。そりゃ君が日記を書いた経験がないからや。せやから日記は怖いで。日記で吐き出すことのでける人はええけど、逆にええカッコを見せようとすると、その人間はカルマを積むことになって、逆効果や。でもウソも方便ちゅうこともあるしな。言葉ゆうのはカルマを積むことになるからなあ。だからラマ僧は、書くことは外道のやることやとゆうんや。セトウチさんの師匠の今東光さんも「外道」と言うてたけど、河内の外道はヤクザのことと違いまっか。

週刊朝日  2021年1月1‐8日合併号