鴻上:僕は、そこにこそコロナの特徴が表れていると思います。従来であれば、例えば自分の子どもが罪を犯したとき、家族がコメントを出すかどうかというのは一部の人たちに限られた選択肢でした。

 でも、コロナ感染は誰にでも起こり得る状況です。感染者の周囲にいる人々は加害者家族と同じ状況に置かれて、「自分はどうするんだ」と考えなくてはいけなくなった。いま本当に怖いのはコロナにかかることではなく、「コロナにかかった」と後ろ指をさされること。誰かの後ろ指をさしていたらいきなり自分がさされる側になるかもしれません。コロナは国民全員に対して「あんたどうする?」と突きつけるきっかけを作ったと思っています。

安田:世間も後ろ指も、ある意味では捉えどころがないものですよね。対峙(たいじ)することはできるでしょうか。

鴻上:一つの方法は、複数の世間に所属することですね。例えば職場は代表的な世間の一つですが、ブラックな労働環境に身を置いていると不満や怒りがたまって、自粛警察的な行為に走るということも起こりやすくなる。ボランティアでもいいし、絵画教室でもいい。たった一つの世間ではなく、緩やかな世間を見つけて、そこに参加することで見え方が変わってくると思います。

 そういったものに参加する余裕がない場合は、「世間話」ではなく「社会話」をする。例えば、道路を歩いていて、向こうから犬を連れた人が歩いてきたら「可愛いワンちゃんですね」と話しかけてみる。もしくは、普段入らない定食屋に別ルートで入って、その主人と「おいしかったよ」と話す。いま所属している世間以外の回路を作っていくことで、感情のありようも変わっていくと思います。

安田:「緩やかな世間」、僕もとても大切なものだと認識しています。このところ、団地に住んでいる単身高齢者を取材しています。団地で多いのが、高齢男性の孤独死や単独死。広い緩やかな世間とのつながりを持てなかった男性が誰にも気づかれることなくひとりで死んでいくというケースが圧倒的に多い。

 一方、女性の場合は地域に対する結びつきが多く、孤独死にはなりづらい。ですから、緩やかな世間を持つことは究極的には自分の命を守ることにもつながっていると感じました。いま排他的な心性を抱える人も、緩やかな世間に属すことで視野が開かれていく可能性はあります。今日の対談を通して、多様性の端切れをつかむわずかな手がかりが得られたような気がします。

(構成/本誌・松岡瑛理)

週刊朝日  2020年10月30日号より抜粋