東尾修
東尾修
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1982年、鈴木善幸首相を訪れて日本シリーズ優勝のあいさつをする西武の広岡達朗監督(左) (c)朝日新聞社
1982年、鈴木善幸首相を訪れて日本シリーズ優勝のあいさつをする西武の広岡達朗監督(左) (c)朝日新聞社

 西武ライオンズの元エースで監督経験もある東尾修氏は、西武の“黄金期”を振り返りながら、今のチームに不足するものを指摘する。

【写真】鈴木善幸首相を訪れて日本シリーズ優勝のあいさつをする西武の広岡達朗監督

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 私がプレーした西武が埼玉・所沢に移転して西武ライオンズとなってから3千勝に到達した。9月23日の日本ハム戦に6−5で勝利しての大台到達。1979年から42年目で3千勝。年平均で70勝以上が必要だ。

 ファンの方々に黄金期と言ってもらえた80~90年代。そして、その時に主力として活躍した渡辺久信GM、辻発彦監督が今のチームを支え、チーム強化にあたってくれている。常に優勝争いするチームをこれからも作っていってもらいたいと思う。

 移転当初のことを思い出してみる。79年は阪神から田淵幸一さん、古沢憲司さん、ロッテから野村克也さん、山崎裕之さんが加わっての寄せ集め集団だった。野村さんは、40歳を超え、肩も衰えていた。低めの制球力が身上の私だったが、「直球の使い方が難しかった」とのちに教えてもらったこともある。開幕から引き分け二つを挟み12連敗。私も負け続けた。最下位に終わった。

 82年。広岡達朗監督1年目で日本一となった。広岡監督は高知・春野キャンプの宿舎で各部屋の冷蔵庫に鍵をかけた。夜間練習、ミーティングで缶詰め状態にした上でキャンプ唯一の楽しみ、夕食はビール禁止で玄米食だ。厳しさはグラウンドでも同じ。前期優勝したが、6月2日の日本ハム戦、一塁ゴロで一塁ベースカバーに入った私は落球。エースでありながら、この落球で、ローテーションを飛ばされた。若い選手は管理野球、ベテランは反骨心。そういったものが合わさっての優勝だったろう。私も32歳となった年。初めての優勝の味は今でもはっきりと覚えている。

 森祇晶監督の下では、優勝するために何が必要かをみんなが考えられていた。私もベテランとなっていたが、工藤公康(現ソフトバンク監督)や渡辺久信といった若手に大きな刺激を受けた。私が引退する前年の87年。私が17完投で、工藤公康が23完投。若手の突き上げが37歳の私を元気にしてくれた。

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