姜尚中氏(左)、五木寛之氏 (撮影/戸澤裕司)
姜尚中氏(左)、五木寛之氏 (撮影/戸澤裕司)
五木寛之氏(右)と姜尚中氏(左) (撮影/戸澤裕司)
五木寛之氏(右)と姜尚中氏(左) (撮影/戸澤裕司)

 作家・五木寛之(87)と政治学者・姜尚中(70)がコロナ禍の時代をどう生きるかを語り合った。

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[前編 五木寛之「東京五輪は無理だと誰もが感じている」姜尚中と対談 より続く]

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五木:コロナ禍で突きつけられた医療現場の選択で、重篤で先の短い90歳の患者さんと、将来のある若い人とどちらを救うかという局面があるでしょう。年寄りのほうに人工呼吸器をつけるべきだというのが仏教の考え方です。

 でも、いまは若い人を救う、という風にマニュアル化されている。つまり“コスパの高い”人を救うということが。でもそれでいいのか、と迷ってもいい。僕は一番症状のひどい人を救う、一番つらい人を救うべきだと思いますけど。そういう局面で、人の将来の生産需要など計算しちゃいけない。

 僕のような年を取った高齢者の立場でそんなことを言うと、自分たちの階層を保護するような形になるんですよ。若い青年の間から、「弱いものを救うべきだ」という、そういう意見が出ても本当はいい、と思うんですけどね。

姜:恐らくそこが決壊すると、優生思想になってしまう。これは偶然でしょうけど、京都でALS患者の“安楽死”事件が起きましたよね。少し前には神奈川県相模原市の障害者施設で事件が起きました。まずは弱者、困っている人を優先しなきゃいけない。でも実際は、効率性や生産性で測られるコスト重視論が広がっています。

五木:例えば政治家がこうすればいい、と言った時に、宗教の立場からはいやそうじゃない、“ダメな人”を救え、と。そんな声があってもいいはずなんですけどね。しかし、どの宗教からもそんな声は聞こえてきません。

■愛という言葉が聞こえてこない

五木:コロナ禍の現在、「愛」という言葉がほとんど聞こえてきませんね。そもそも僕なんか愛なんて聞くと、むずがゆくなってきてアレルギー起こしそうなたちなんだけど、いまは違います。こんな時こそ、どこかから愛という言葉を実感させてほしい。弱い人間と強い人間と2人いて、どっちに人工呼吸器をつけるかといった時には、そこで迷って迷って、弱い立場の人につける、という考えもあるんじゃないか、と。

姜:人類史の中で延々と積み重ねられてきた愛とか共感とか、なんかそういう言葉がだんだん死語化するようなね。そういうイメージで、コロナの時代を迎えています。人間存在の共同性みたいなものが根本から崩れていますね。だからこそ、この状態をどこまで受け入れて、耐える中で、やっぱり共感や喜びを見いだすような考えが広がらないといけない。

 でもね、思春期の若い人たちはこの状況をどう受け止めて大人になっていくんだろうかなあ、と思うと、胸が痛い感じがします。愛という言葉は、いちばん陳腐でいちばん希少な言葉になっているのかもしれません。

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