日本軍が設営した本島・フララップ島の滑走路=2003年、友松撮影
日本軍が設営した本島・フララップ島の滑走路=2003年、友松撮影
戦後初の引き揚げ船で大分・別府港に着いたメレヨン島からの復員兵=1945年9月 (c)朝日新聞社
戦後初の引き揚げ船で大分・別府港に着いたメレヨン島からの復員兵=1945年9月 (c)朝日新聞社
メレヨン島の海岸に残る日本海軍の砲身=66年、遺骨調査団撮影 (c)朝日新聞社
メレヨン島の海岸に残る日本海軍の砲身=66年、遺骨調査団撮影 (c)朝日新聞社

 戦死者約300万人の太平洋戦争末期、一度も本格的な戦闘をしないまま、兵士の7割以上、約5千人が命を落とした島がある。ほとんどが餓死か病死だったという。何が生と死を分けたのか? ノンフィクションライター・友松裕喜氏が真相を追った。

【写真】戦後初の引き揚げ船で大分・別府港に着いたメレヨン島からの復員兵

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 赤道に近い北緯7度東経143度、太平洋のメレヨン島=ウオレアイ環礁は、東西約8キロ、南北約5キロに海抜約3メートルの約16の島が点在している。

 久米宏氏が出演していたテレビ朝日「ニュースステーション」のディレクターとして、2001年、私は、「スターナビゲーション・星の航海術」の取材で初めて、この島に渡った。取材が不調に終わり、何もすることがない私の視界に入ってきたのは、「戦争の残骸」である野砲、銃器、壕などが散在する光景だった。本島・フララップ島の中心部には日本人が戦後、建立した慰霊の鐘「メレヨンの鐘」が設置され、コンクリートの台座には「友よ安らかに眠れ」の銅板が貼られていた。私はこの環礁が「戦地」だったことを初めて知る。鐘の台座の裏には「全国メレヨン会」という組織が建立した旨が明記されていた。

 帰国後、『メレヨン島生と死の記録』(朝日新聞社)などの資料を読んだ。戦争中、現在のミクロネシア連邦・ウオレアイ環礁には、約7千人の日本兵が駐留した。そのうち戦没者概数は約4900人に上る(厚生労働省調べ)。

 1941年、フララップ島に滑走路の建設が始まった。兵士にとって「太平洋の防人」として守備に就く準備を整える。メレヨン島に部隊本隊が上陸したのは、44年4月。3カ月後の7月にサイパン、8月にグアムが玉砕。そのため、それらの南に位置するメレヨン島への米軍の攻撃は皆無になった。加えて日本軍からの食糧補給は、ほぼ完全に止まった。米軍からも日本軍からも「見放された島」がメレヨン島である。

 しかし、兵士に食料は必要だ。やせた土地で農作物を作るなど現地自活生活を余儀なくされる。米の支給は制限され、飢餓はその極に達した。さらに風土病のデング熱に加えて、アメーバ赤痢などの併発により、多くの犠牲者が出た。

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