「漱石の間」には今もファンが訪れる/修善寺温泉「湯回廊 菊屋」
「漱石の間」には今もファンが訪れる/修善寺温泉「湯回廊 菊屋」
晩年の武者小路実篤は毎年のように長期滞在した/伊豆長岡温泉「いづみ荘」
晩年の武者小路実篤は毎年のように長期滞在した/伊豆長岡温泉「いづみ荘」

 寒さが日ごとに厳しくなり、温泉に行きたくなる季節が到来した。

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 かつて文豪たちも温泉で様々な時を過ぎしている。生涯で100カ所を超える温泉旅館を旅した与謝野晶子や1年のほとんどを温泉宿で過ごしたこともある川端康成。志賀直哉は城崎温泉で名作「城の崎にて」を書き、斎藤茂吉や島崎藤村、田山花袋などは各地の温泉にゆかりの宿があるほど温泉を旅した。

 発売中の 『文豪が泊まった温泉宿50』(週刊朝日編集部)では、50人の文豪たちと温泉宿の奇妙なかかわりが書かれている。本書の中から、文豪と温泉宿の関係がよくわかるエピソードをクイズ形式で紹介する。

Q1.漱石が修善寺「菊屋」の梅の間を愛した理由とは?

 子供時代の天然痘に始まり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病など、多くの病気にかかった夏目漱石は明治43年6月、胃潰瘍のため入院。退院後の8月6日、医師の勧めに従い療養生活に入る。選んだのは修善寺温泉の名宿「湯回廊 菊屋」だった。宿泊したのは2階の「梅の間」。現在も「漱石の間」として利用されている、漱石お気に入りの部屋だ。

 だが、療養3日目には床に伏し、胃痙攣や胆汁の嘔吐を繰り返すなど、容体は悪化の一途をたどる。8月24日夜には800gの大吐血をして、脳貧血から意識を失うという危険な状態に陥った。駆け付けた医師たちが十数本のカンフル注射をして一命をとりとめた。これが文学史にも残る「修善寺の大患」である。

 東京への帰還が許されたのは10月。約2カ月の闘病だった。一度は死にかけ、2カ月の時を過ごした「梅の間」について、漱石は「寝ていると頭も足も山なり。好い部屋ならん」と書いている。頭側と足側の窓、どちらにも山が見えるこの部屋を、大文豪はたいそう気に入っていた。

【正解】2方向に山が見える景色が気に入ったから

 Q2.絵も嗜んだ武者小路実篤が絶対に描かなかった素材は何?

 志賀直哉とともに白樺派文学を牽引した武者小路実篤は、時に立つこともままならないほど重い神経痛に悩んでいた。あちこちの温泉に通ったが症状は改善しなかった。そんなときに紹介されたのが伊豆長岡温泉の「いづみ荘」だ。昭和元年ごろ訪れると、病状は見る見るうちに回復。以後二十数年間、実篤はいづみ荘をひいきにし、何度も長期滞在した。

 この宿で書いた作品も多い。『棘まで美し』や、菊池寛賞を受賞した名作『愛と死』などの小説や、多数の絵を描いている。実篤の絵は、「仲良きことは美しき哉」など、平易な口語表現の短詩に果物などの静物画が添えられる作品が多く、愛好家は多い。実は実篤が初めて絵を描いたのが、このいづみ荘である可能性が高い。宿の大女将によると実篤はある日、柿か野菜の絵を描き「四十何歳の男、初めて絵を描く」と記していたことを覚えている。

 宿泊中、毎日のように画作に熱中し、近所で採れた野菜や果物の絵を描いた実篤だが、大女将によると、唯一描かなかった素材がある。匂いももちろん、見ることさえ嫌がったというトマトだ。いづみ荘内にある武者小路実篤文学館には、さまざまな実篤作品が残されているが、そこには確かにトマトを描いたものはない。

【正解】トマト

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