そこで聖徳太子の時代に使われていた「王」を用いて厩戸王と呼ぶようになった。聖徳太子のころは皇太子や摂政といった制度もまだ確立されていなかったとみられ、「摂政として国を支えた」などの表現も使われなくなっている。

 東京大学史料編纂(へんさん)所教授で、歴史教科書も執筆する山本博文さんによると、教科書の表現が変わるのは主に二つ。一つは新しい歴史的発見があったとき、もう一つは学界や研究者の間で議論が進んだときだという。

「新しい発見があると教科書にも割と早めに反映されます。研究者の議論に基づいて表現が変わるケースでは、新しい説が定着してから反映されることが多い。議論の方向性が二転三転し、教科書の表現が変わったり元に戻ったりすることもあります。全体として、古い時代の出来事ほど表現や見方が変わるケースが多い印象です」

 新発見によって文字通り教科書が塗り替えられた代表的な例は、最古の貨幣だ。1998年に奈良県の飛鳥池遺跡にある7世紀後半の地層から見つかった「富本銭(ふほんせん)」が、それまで最も古いとされてきた「和同開珎(わどうかいちん)」に取って代わった。

 富本銭が見つかったことで、10世紀半ばまでに国家によって作られた12種類の貨幣の総称「皇朝(本朝)十二銭」という呼称も使われなくなった。国家が鋳造した貨幣が13種類になってしまったからだ。

 鎌倉幕府がいつ成立したのかも今と昔で異なる。

 シニアにとっては、「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」という語呂合わせがなじみ深いように、「1192年」と覚えている人が多いはずだ。

 ところが最近の研究で、鎌倉幕府は段階的に成立したとする見方が強くなった。源頼朝が東国の軍事支配権を確立した1180年のほか、朝廷に領地の支配権を認められた1183年、公文所(くもんじょ)や問注所(もんちゅうじょ)などの幕府の内部機関を固めた1184年、軍事・行政官である守護や地頭を各地に置くことが朝廷から認められた1185年などが成立年の候補になっている。

「専門家の間でも30~40年前から議論されていますが、決着はまだついていません。1185年に成立したとする見方が多く『いいはこ(1185)』という語呂合わせが使われることもありますが、教科書ではあいまいな表現にとどまっています」(山本さん)

 いずれにせよ、かつての1192年は、源頼朝が武家のトップである征夷大将軍に任命された年にすぎないとみられるようになった。形式より実質的な支配が確立した時期を重視することで、1192年よりも前に成立したとの見方が定着している。

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