絵のスタイルを意図的に変えようとしなくても、身体の都合によって自然に変ります。頭で考えるのではなく、身体に従えることで変る。これが自然体じゃないでしょうかね。

 中庸というのはどちらにも片寄らない中正な様子で生き方としては、最も生きやすい状態でしょう? そう考えると難聴も悪いことではなく、聴こえているような聴こえてないような状態で、いいかげんに生きることでもあるんじゃないでしょうかね。このいいかげんに生きるということは、もしかしたら長寿のコツのような気がしています。

 すると97歳のご高齢の瀬戸内さんの長寿の秘訣は、実はいいかげんさにあるんじゃないでしょうか。ということになりませんかね。いいかげんとは、いい湯かげんのことです。ほどほどということですよね。絵もがんばった絵は見ていてシンドイです。肩の力が抜けた、何かのためという大義名分ではない、目的のないための絵です。努力の跡が見えない作品、そんな作品を難聴が描かせてくれそうな気がしています。

 と、考えると、この往復書簡もいいかげんがいいのかもしれませんね。二人とも本質的にいいかげんなところがある(私は違います、と言われそうですが)ので、その辺でおつきあいをさせていただきたいと思います。ではお返事をお待ちしています。忠則

■天才は三島さんくらい あ? 横尾さんもよ

 横尾さあん

 とうとう往復書簡の実現を見ました。私が九七歳、横尾さんが八三歳になって、漸く実現しました。たぶん、この連載がつづく間に、私は必ず死ぬでしょう。もちろん、老衰が原因です。出版社はシメタ!とすぐ本にしてくれ、ベストセラー間違いなし! うまく百歳と重なれば、宣伝しなくても、百歳になる秘密が書かれているにちがいないと、売れに売れることでしょう。想像しただけで景気がよくてワクワクする。

 七十年もペン一本で食べてきた年月に、一度だってベストセラーなんて景気のいい目にあったことのない私は(そんなことない、と秘書のまなほは言う)、死んでからでもいいから、そんな目にあってみたいものですよ。

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