現在、ワイン造りではこの低温加熱殺菌は必ずしも必要ではない。しかし牛乳などといったその他の飲食物の殺菌に、パスツリゼーションの原理は応用されている。

 エチルアルコールのみならず、パスツールはさまざまな発酵現象を発見した。グリセロールの生じる発酵、コハク酸や酪酸といった酸を生じる発酵、乳酸菌が乳酸を作るのも微生物の作用だ。

 もっとも、乳酸菌が乳酸を作る場合において、酒造りの邪魔になる場合は「発酵」と呼ばずに「腐敗」と呼ぶ。「発酵」と呼ぶか「腐敗」と呼ぶかは人間目線で、「役に立つか」という、人間様の恣意的な視点次第だ。「発酵と腐敗を区別するのは、科学ではなく文化である」(小泉武夫)とはまさに至言である。だから、乳酸を作る場合も「腐敗」と呼ばずに「発酵」扱いすることもある。

 例えば、ワイン造りで用いるマロラクティック発酵がそうだ(後述)。マロラクティック発酵も乳酸を作るのだが、人間の役に立っているので「発酵」でOKだ。 科学の世界といっても、人間中心目線で専門用語が決まることは多い。科学の営為は、必ずしも無感情で無表情な営為ではない。

■第1回パリ万博で格付けされた優秀なワインは今でも高級

 パスツールは1866年に『ワインの研究』という著書を出版する。ワインの微生物学的、発酵という観点からまとめた本だ。その11年前のナポレオン3世の時代の1855年、フランスで万国博覧会が開催された。それをうけて、その年にボルドー(メドック地区とソーテルヌ地区)では優秀なワインの格付けが行われた。

 現在も、とても有名なシャトー・マルゴー。映画「失楽園」で有名になったワインだ。映画では黒木瞳が出演していたが、テレビ版に出ていたのが川島なお美だ。こうした超有名なワインが、このときボルドー・メドック地区の1級ワインに格付けされたのだ。現在でもメドック地区の格付けはほとんど当時と変わっていない。例外的にシャトー・ムートン・ロートシルトが1973年に2級から1級に昇格したのみだ。

 現在のメドック地区の1級から5級までの格付けを表に示す。日本ソムリエ協会のワインエキスパートの試験を受けるときは、これを丸暗記しなければならない(らしい)。言い換えるならば、1855年にはボルドーワインの基本的なスタイル、大きな方向性は確立していたのだ。
 
 その一方、そのワインがどうして、どのようにしてブドウからできるのかは、ボルドーワインの格付けとほぼ時を同じくして行われたパスツールの数々の実験(とその背後にある彼の極めて優れた洞察)によってわかったのだ。

◯岩田健太郎(いわた・けんたろう)/1971年、島根県生まれ。島根医科大学(現島根大学)卒業。神戸大学医学研究科感染治療学分野教授、神戸大学医学部附属病院感染症内科診療科長。沖縄、米国、中国などでの勤務を経て現職。専門は感染症など。微生物から派生して発酵、さらにはワインへ、というのはただの言い訳なワイン・ラバー。日本ソムリエ協会認定シニア・ワインエキスパート。共著に『もやしもんと感染症屋の気になる菌辞典』など

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岩田健太郎

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岩田健太郎(いわた・けんたろう)/1971年、島根県生まれ。島根医科大学(現島根大学)卒業。神戸大学医学研究科感染治療学分野教授、神戸大学医学部附属病院感染症内科診療科長。沖縄、米国、中国などでの勤務を経て現職。専門は感染症など。微生物から派生して発酵、さらにはワインへ、というのはただの言い訳なワイン・ラバー。日本ソムリエ協会認定シニア・ワインエキスパート。共著にもやしもんと感染症屋の気になる菌辞典など

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