話は7、8年前に遡る。

 大センセイ、取材で上海に行ったのだが、そこは、わずか30年前、道行く人の大半が緑色の人民服を着ていたことなどまるで幻であったかのごとき、先進的な大都会であった。

 摩天楼が聳え立ち、大通りにはオメガやルイ・ヴィトンといった一流ブランドの路面店が櫛比(しっぴ)している。

 しかし、少なくとも7、8年前の中国人は、決してスマートではなかった。

 路線バスがバス停にとまると、まだ降りる人がいるというのに、われ先に乗り込もうとする人が大勢いるのである。すぐさまつかみ合いの喧嘩が始まって、大声で罵り合っている。

 大センセイ、そんな場面に何度も遭遇して、「順番守ればいちいちあんなことしなくていいのに」と冷ややかに眺めたものである。

 翻って、わが日本国の秩序ある社会の姿は感動的ですらある。単にATMやレジの前にお行儀よく行列できるばかりではない。待ち時間に不公平が生じないよう、フォーク並びまでしちゃうのだ。誰かに監視されているわけでもなく、誰からも強制されていないのに、ルールを守る、守れる、守っちゃうんである。

 きっとスマート君なら、こう言うに違いない。

「こんなに簡単なことで喧嘩しないで済むんですよ。ねっ、ヤマダさん、スマートでしょ。わかります?」

 そう、現代のスマートは、「こんなに簡単なことを、なぜやらないんですか」、いや、「やらないあなたは、合理的な選択ができない人ですね」というニュアンスを豚骨スープのごとく濃厚に含んだ言葉なのだ。

 だから、スマートは傲慢で、そしてかなり冷たい。

週刊朝日  2018年10月19日号

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山田清機

山田清機

山田清機(やまだ・せいき)/ノンフィクション作家。1963年生まれ。早稲田大学卒業。鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(第13回新潮ドキュメント賞候補)、『東京湾岸畸人伝』。SNSでは「売文で糊口をしのぐ大センセイ」と呼ばれている

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