オウムとの出合いは、医師国家試験を間近に控えた6年生の冬だった。冷やかし気分でオウムの道場を訪ねたとき、早川紀代秀死刑囚に瞑想を勧められてやってみると、光が体を通り抜け、あたりが真っ白になるような「神秘体験」をした。
その日から、オウムの道場に通うようになった。
「道場に行かんと体に力が入らん」
周囲にはこう語っていた。
卒業後は道場に通いながら、大阪鉄道病院に研修医として勤務したが現場に適合できず、1年余りが過ぎた1989年8月に退職。
「人のために尽くしたい」と、出家してオウム真理教付属病院の顧問になった。
出家の約2カ月後、坂本弁護士一家殺害事件の実行役に選ばれる。
弁護士の寝室に入り、他の実行役が夫妻を攻撃するのをしばらく見ていると、足元で幼児が泣き始めた。
「子どもをなんとかしろ」と自分の心臓から声が聞こえてきたため、タオルケットで口のあたりを押さえると、幼児の泣き声はやみ、動かなくなった。続いて、隣で手間取っていた村井秀夫に代わり、夫人の首を絞めた――。
公判での供述によれば、殺害はこんな様子だったという。人を殺めたにもかかわらず、「息が聞こえるくらいの近さに麻原氏がいるという一体感を感じてうれしかった」という。
その後、麻原の主治医となり、麻原と家族の世話をする法皇内庁の長官になった。同時に、松本、地下鉄サリン事件や信徒殺害事件、仮谷さん逮捕監禁致死事件など教団が犯したほとんどの凶悪事件にかかわった。起訴された事件は、麻原の13件に次ぐ11件で、死者は26人にのぼった。
裁判では、ほとんどの信徒が、麻原の指示に抵抗を感じても服従するしかなかったと語る中、積極的に加担したと認めた。事件に関与するたび、「神秘体験」をしたと繰り返し主張した。
当初は麻原を「尊師」と呼んでいたが、「正確な証言をするのに、言葉に引きずられたくない」と、途中からは「麻原氏」と呼ぶようになった。麻原の裁判に証人として出廷した際は、
「サリンを作ったり、サリンをばらまいたり、人の首を絞めて殺したりするために出家したんじゃない」
と、証言台に突っ伏して泣き崩れて訴える一方、こうも言った。
「麻原氏のせいという気持ちはない。確かに教祖である麻原氏がいなければ事件はなかったが、私たちがいなければ事件はなかった」
最高裁の判決前には「どうして事件が起こったのか、明らかになっていない」とコメントを出した。2011年11月、死刑が確定した。
*誰より多くサリンを撒いた「殺人マシン」の意外な素顔 <教団エリートの「罪と罰」(4)>へつづく
※週刊朝日 臨時増刊『オウム全記録」(2012年7月15日号)