■「武装化」進めた秘密兵器研究家


<早川紀代秀(はやかわ・きよひで)>

(1)生年月日:1949年7月14日
(2)最終学歴:大阪府立大大学院農学研究科
(3)ホーリーネーム:ティローパ
(4)役職:建設省大臣
(5)地下鉄サリン事件前の階級(ステージ):正悟師

「早川ノート」と呼ばれるものがある。教団の防衛庁長官だったK・Tが逮捕された際に押収された、早川が作成したといわれるオウム武装化計画が記されたノートだ。

「もう戦うしかない 尊師にとって、敗北は死である」

 という文言から始まるそのノートには、戦車や自動小銃の値段、防毒マスクの使い方、サリンの製造工程などが断片的に記され、「95年11月 戦争」という記述で終わっている。

 麻原から「秘密兵器研究家」と評された早川は、1949年生まれの「団塊の世代」。大阪府堺市で地方公務員の一人息子として育った。

 神戸大学農学部でバイオ技術を学び、進学した大阪府立大大学院では、緑地計画工学を専攻。卒業後は大手ゼネコンに就職し、土木技術部開発設計課に勤務した。しかし5年後に退職し、さらに2社に勤務した後、86年にオウムに入信した。麻原の著書を読んだことがきっかけだった。

 翌87年には全財産を寄付して出家した。麻原より6歳年上で、若者が多い教団では「おやじ」と呼ばれていたという。

 教団内ではゼネコンでの勤務経験を生かし、土地買収などの先頭に立つ。

「尊師が『やれ』と言われたことをやっていく」

 という姿勢で、「建設」にかかわるすべてを仕切った。

 教団のロシア進出では、表の顔は上祐史浩が努めたが、ラジオ局でのオウムの布教番組を流す交渉など、カネが絡む場面では早川が登場した。

 モスクワ工科物理大学へ高性能コンピューターを寄贈し、レーザー研究の権威らに接近を図った。軍用ヘリと同型の「ミル17」を買い付け、銃器密造のモデルとなる部品や、LSD(合成麻薬)密造の原料もロシアから日本に持ち込んだ。

次のページ
生中継で筑紫哲也や有田芳生のインタビューを受けたことも