萩本欽一(はぎもと・きんいち)/1941年、東京都生まれ。66年、7歳年上の坂上二郎と「コント55号」を結成。国民的な人気となる。その後、ソロ活動。「いい若いヤツがいたら『欽ちゃん』の名前をあげたい。でも、そこまでがんばろうってのがいなくてさ。時代が違うんだね」。(撮影/写真部・小原雄輝)
萩本欽一(はぎもと・きんいち)/1941年、東京都生まれ。66年、7歳年上の坂上二郎と「コント55号」を結成。国民的な人気となる。その後、ソロ活動。「いい若いヤツがいたら『欽ちゃん』の名前をあげたい。でも、そこまでがんばろうってのがいなくてさ。時代が違うんだね」。(撮影/写真部・小原雄輝)

 あのとき、別の選択をしていたら──。人生に「if」はありませんが、誰しもやり残したことや忘れられない夢があるのではないでしょうか。著名人が「もう一つの自分史」を語ります。今回はコメディアンの萩本欽一さんです。

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 子どもは男が3人。それなりにユニークに育ったかな。でも、たくましいところがないんだよね。あるとき、息子に「なあお前、一発勝負してやろうって気はないの?」って聞いたら、「普通がいいよ。普通というのは、たいへん素晴らしいことですよ」って諭されちゃった。

 コメディアンとして、変わった家庭を作らなきゃっていう気持ちが少しあったからかな。僕ね、もう一回、人生をやるとしたら、普通に会社勤めをして〝マイホームパパ〟をやってみたいの。奥さんは夫を立ててくれて、子どもたちもお父さんを尊敬してる。家族サービスも思いっきりするし、家族旅行も行っちゃう。

 実際の萩本家? もう、ぜんぜん。子育ては奥さんに任せっきりで、番組を作るのに忙しくて家にはあんまり帰らなかった。子どもが小さいとき、たまに家に帰って子どもと遊ぼうとしても、なんかしっくりこないんだよね。子どものほうが気を使ってるみたいでさ。奥さんにも「あなた、無理しなくていいから」なんて言われちゃった。

 後悔してるわけじゃないんだよ。仕事が好きなら思いっきりやればいいわよっていうスタンスでいてくれたことには、とっても感謝してる。もっといいパパになってちょうだいと言われてたら、プレッシャーでどうにかなってたかもしれない。

 僕は今でも、家族の旅行に連れていってもらえない。僕をのけ者にしているんじゃなくて、芸能人といっしょだと、見えを張っていいホテルに泊まったりするから、わずらわしくて嫌なんだって。

 戦時色が色濃くなってきた1941年に、東京・台東区の下町で生まれた。戦時中は浦和に疎開。当時は父親のカメラ会社が好調で羽振りがよかった。だが、戦後次第に会社は傾き、下町の長屋に舞い戻る。

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お手伝いさんもいた浦和の家…