浦和の家はそのころは珍しい洋館風で、広い庭があって、お手伝いさんもいて「欽一お坊ちゃま」なんて呼ばれてたんだよね。会社がうまくいっているころのおやじは、子どもたちに会社を継がせて事業を大きくしようと思っていて、長兄は次の社長、次兄は大学の工学部に進ませて工場長、僕には商学部を出て営業担当の重役になれって、しょっちゅう言ってたなあ。

 でも、戦後しばらくして会社が傾き、小学校4年生のときに浦和の家を売っぱらって、また下町の長屋に戻ってきちゃった。それから、おやじの会社はますます傾いて、人手に渡っちゃった。もし、会社が好調に続いて、僕は大学に行って、おやじの会社に入っていたら、それこそマイホームパパになってただろうね。

 東京の下町に生まれて、浮き沈みがあって、また下町で過ごしたっていうのは、最高にラッキーだったと思っている。僕はあそこで人生とはどういうものかを教わった。
 中学時代、借金取りに土下座するおふくろの姿を見たとき、決意したんだ。「お金持ちになるぞ」と。それが、コメディアンを目指すきっかけ。

 あの町じゃなくて、どこか静かなところに生まれていたら、芸能界の激しい動きについていけなかったかもしれない。そもそもコメディアンになっていないよね。

 でも、おふくろは、僕がテレビで有名になっても、「あんなに人に笑われて恥ずかしい」ってずっと言ってた。お笑いとか、まったくわかんない人だったんだよね。98年に長野オリンピックの閉会式の司会をしたとき、初めてホメてくれたなあ。

 80年代前半には『欽ドン! 良い子悪い子普通の子』『欽ちゃんのどこまでやるの!?』『欽ちゃんの週刊欽曜日』が軒並み超人気番組に。「視聴率100%男」と呼ばれる。

 がむしゃらに突っ走っているころから、テレビっていうのは、45歳が限界かなって思ってたのね。

 もうすぐ44歳になる85年に、休養宣言なんてしちゃった。まだそれなりに人気番組だったけど、ピークに比べたら視聴率も下がり始めたんだよね。でも、周りはピークの数字を要求してくる。

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「自分らしくない」と感じることとは