挿絵の入った読み物の黄表紙は、今でいうマンガのようなものだし、コスプレ文化さえあった。吉原俄というイベントはさながら渋谷のスクランブル交差点でのハロウィーンのような賑わいだったという。当然ながら、吉原や岡場所という性風俗産業、春画などアダルト産業は、独身男性過多の需要に応じて発展した産業でもある。

「宵越しの金は持たない」という彼らの消費意欲は旺盛だったが、それは決してモノ消費のような所有価値を重視した価値観ではない。むしろ、承認や達成という人間の根源的な欲求を満足させようとする意欲が強く、彼らにとって消費行動とは「幸せ感の獲得」という精神価値充足の手段だった。 それは、SNSに写真をアップして「いいね」をもらう目的のために、レストランや旅行に出かけたりする今の「インスタ映え」行動にも通じるものがある。

 このように独身男性が多かった江戸と現代は共通点が多く、日本人は既に一度大きなソロ社会を経験しているのだ。だからといって国が滅びたわけではない。むしろ、彼ら江戸の独身男性たちは、子孫こそ残せなかったものの、今に続く多くの文化や産業を残したとも言えるだろう。

 さらに、江戸は循環性のある「つながる社会」でもあった。灰買いや肥汲みは勿論、古紙や古釘、抜けた毛髪に至るまでリサイクルしていた。人々の価値観も、物事や人はすべてつながっており、自分の行いは巡り巡って自分に戻ってくるという概念に基づいている。そこには、ソロ社会における生き方のヒントがある。

 現代の話に戻ろう。未婚化の話題になると、既婚者層からは必ず「結婚しないと孤独死するぞ」という指摘が出る。が、結婚しても孤独死はあり得るのだ。繰り返すが、誰もがソロに戻る。未婚者や既婚女性はまだそうした覚悟がある人も多い。私が憂慮するのは、従来の家族モデルに安心しきっている昭和な夫たちである。

 そういう方に友達の数を聞くと、驚くほど少ない。友達の数は多ければいいというものではないが、彼らは学校・職場という旧来のコミュニティー内でしか人とのつながりを作れない傾向が強い。会社にいる間はそれでもいいが、退職したら誰も連絡してこなくなる。 これこそ、職場唯一依存の弊害である。同様に、家庭では夫は妻だけに依存しがちだ。妻と離別や死別すると生きていけないという高齢夫が多いのは、まさに妻への唯一依存体質のためである。

 一方で、妻のほうは、子どもが独立した途端に新しい友達も作って生き生きとしている。夫はそういうことがなかなかできない。これは、内向的とかの性格の問題ではない。夫も仕事でならできるのに、プライベートではできないのだ。職場や妻だけという唯一依存は危険だ。定年退職とともに妻から三行半を突きつけられるような熟年離婚(結婚20年以上)も今や構成比2割に達しようとしているのだ。そんな昭和な夫たちは勿論のこと、未来に生きる人たちには、未既婚関係なく全員この「ソロで生きる力」を身につけてもらいたいと思う。それは、外的な人とのつながりを拡充することである。決して、誰とも関わらず、孤高で生き抜くサバイバル能力ではない。逆説的だが、「ソロで生きる力」とは、誰かとつながる力である。家族や職場の人以外で新しく誰かとつながり、会って話をすることで、自分自身を活性させることが必要なのだ。

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