A5.水晶です。鎌倉時代の仏像の特徴の一つに玉眼がある。玉眼は目の内部をくりぬき、内側から水晶のレンズを当てた技法。玉眼を入れることで写実的な表現に、より深みを与えている。この仏像は、北インドに実在した学僧・無著の像。

A6.治承4(1180)年に起きた南都焼き討ちです。
治承・寿永の乱のさなか、平重衡が放った火で東大寺、興福寺の主要伽藍と仏像が焼失した。それを再興したのが京都に拠点を置いた院派、円派とともに運慶ら奈良の仏師であった。上は運慶が写経した法華経で、長い期間にわたるであろう造像の成功を願ったのではないか。

A7.鎌倉幕府の初代執権・北条時政です。
武将のような顔つきに引き締まった体で腰を捻って立つ。今にも動き出しそうで、運慶の独創性が際立つ作品である。像内の銘札から北条時政が運慶に依頼したことがわかる。この写実的で勇ましい姿が鎌倉幕府の御家人たちに受け入れられ、東国で慶派の仏師が活躍していくのだ。

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世界的にも屈指の彫刻家と位置付けられる運慶。その躍動的な写実性が生み出された背景には、鎌倉時代という武士の時代の到来がある。

「生々しい表現を好まなかった貴族と違い、武士は、運慶のつくる仏像の力強さに親近感を覚えたのだと思います。武士の依頼は貴族に比べて細かな注文が少なかったとみられ、伝統に縛られず、自由につくれたことが大きいと思います」とは東京国立博物館の浅見龍介さん。

 運慶は、鎌倉初期の興福寺・東大寺の復興時に、奈良仏師出身の父・康慶、一門の快慶、息子の湛慶らと共に活躍。一派は「慶派」と称される。

「『綺麗』という感想が多い快慶に対し、運慶は『すごい!』。主に貴族に好まれた快慶と武士との関係が深い運慶、対照的な二人です」(浅見さん)

 稀代の才能が生み出した数々の仏像に、まずは彫刻として対面してほしいと、浅見さん。「最も有名な仏師ながら、実際に見たことがある仏像は意外に少ないのではないでしょうか。まずは博物館では感性で楽しみ、次にお寺に行って現地で、つくられた時代や背景を考えながら見てもらいたいですね」

週刊朝日  2017年10月6日号