私が足しげく通っている東京・新宿のゴールデン街にも「マレンコフ」と呼ばれた流しがいた。よれよれのジャンパーにギターを抱え「どうです、一曲」。3千曲近いレパートリーを持っていたといい、2曲1千円で客の注文に応じていた。

 本名「加藤武男」。半世紀以上も流しを続けていたそうだが、酔客はそんなことなど関係ない。マレンコフ自身も口数は少ない。いつも口をへの字に結んでおり、旧ソ連の元首相に似ていることから、いつの間にかマレンコフと呼ばれるようになった。

 ギターを奏でては、客を楽しませ、いつしかふらりと去っていた。2009年9月、82歳で死去。ゴールデン街の名物男だったから、その訃報は新聞記事にもなった。

 自分の歌声と演奏の技術だけで客をひきつけた流し。いま、日本に何人いるのだろう。飛騨高山には竜鉄也の友人が現役で頑張っているそうだが、夜のネオン街は不景気だという。

 ときには、グラスを傾け、しみじみとした流しのギターの伴奏で歌いたい。それこそ、裏通りにドブの臭気が漂うような飲み屋街だったら最高。昭和に生まれ育った人間は、そうした風景に郷愁を感じてしまうのである。

週刊朝日 2016年9月9日号