昭和には「流し」という生き方があった… (2/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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昭和には「流し」という生き方があった…

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週刊朝日
渥美二郎。最近の舞台では、流しをしていた時代の思い出話をすることも (c)朝日新聞社

渥美二郎。最近の舞台では、流しをしていた時代の思い出話をすることも (c)朝日新聞社

 流しにとって大切なのは情報だ。とくに地元のタクシー運転手や屋台の店主から聞いた情報は貴重である。どんな客がいるのか。年齢層は。何時ごろ行くと店はにぎわっているのか。いきなり店に入らず、ドアの前でしばらく耳をそばだてる。漏れてくるカラオケのメロディーでギターのキーを合わせ、「こんばんは。一曲いかがですか」と言いながら店の中に入るのである。

 その絶妙のタイミングが難しい。演奏のうまい、下手は関係ない。相手の心をいかにつかむかが大切。銀座の高級クラブのママのように、話題のニュースは頭の中にたたき込んでおく。客を楽しませる会話術も大切。ときに人生相談の相手になることもある。

 だが、流しという商売は漂泊が宿命。どこから来て、どこへ去るのか。なぜこの商売をしているのか。身の上ばなしをうかがうこと自体、ヤボなことである。家庭を持つこともなく、諸国放浪のしがない人生。「道楽の果ての稼業ですよ。ひとさまにも言えんような裏街道も歩いてきました」と竜の流し仲間は言っていた。

 流しは「声色屋」とも呼ばれ、歌舞伎や新派の古風な声色芸で粋に流す人もいた。京都の円山公園には花見の季節になると、尺八や竪琴、太鼓で流す芸人も現れた。客も自分の心情に合う歌を持っていた。だから心がこもっていた。伴奏は流しが合わせてくれた。人を立てることに徹するのが彼らのモットーだった。

 宿場町として古くから栄えた東京は足立区の下町、北千住は、演歌界の大ベテラン、渥美二郎(64)が流し時代に過ごした街である。父も祖父も流し。母はクラブ歌手。渥美にとってギターは子どものころから遊び道具だった。

 北千住には、流したちが泊まる寮もあったという。渥美は昭和44(1969)年、16歳のとき高校を中退して流しの世界に。3曲200円。ギター一本で名曲をしぼり出した。

 自分のレコードを売ったこともある。「いらねえよ。こんなもの」と目の前でレコードを割られたこともあったが、3曲目のシングル「夢追い酒」が昭和54年度の日本レコード大賞ロングセラー賞を受賞。売り上げ枚数260万枚。日本の演歌史上、ベスト3に入るヒット作となった。渥美にとって流しの経験は大きかったにちがいない。飲み屋こそ学びや。大衆の喜怒哀楽を敏感にかぎ分ける力を流したちは養ったのである。


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