「オーディションが終わったあとに優勝した子やスタッフたちと会議室で打ち上げをしたのですが、コーヒーが出たんです。そうしたらベッキーが『私はコーヒーを飲む習慣がないんです、すみません』とぺこりと頭を下げた。売れる子というのは皆共通していて、中学のころからしっかりして意見を言えるんですね。(松田)聖子もそうでした」

 ベッキーはレッスンを経て、舞台に出るようになった。すると、舞台の主催者からサンミュージックに電話がかかったという。

「ベッキーのファンの出待ちが多くて、ひとりで帰すのは危険だというんです。違う子を見に来てベッキーのファンになった子もいたようです。テレビ東京の『おはスタ』のおはガールとして人気が出ると、これからはベッキーみたいな子を探せなんて他の会社社長が言っていました。ハーフタレントの先駆者にもなりましたね。その後の活躍は皆さんご存じのとおりです」

 福田氏は自身の芸能界での人生を振り返り、「音楽の力はすごい」と言う。

 長崎県生まれで原爆が落ちる3日前に疎開して助かったが、中学時代の友達は死んでしまった。だから「長崎の鐘」(藤山一郎)を聴くと、今でも胸にしみる。

 戦後の混乱期、家計を助けるため母親と一緒にガード下で靴磨きをした。「ガード下の靴みがき」(宮城まり子)という歌を聴くと当時が走馬灯のように蘇る、と懐かしそうに語る。

「自分が関わった曲が多くの人の記憶に残り、その人生のどこかで寄り添えたとしたら、幸せですね」(一部敬称略)(本誌・藤村かおり)

週刊朝日  2016年8月19日号