一例では「顔認証カメラ」。監視カメラにあらかじめ「要注意人物」の情報を登録しておくと、大勢のなかからその特徴を抜き出し、自動的に不審者を抽出する。「同時進行型の監視」が可能になったのだ。

 さらに不気味なのは、罪を犯すかもしれない人間を監視する「未来の監視」だ。例えば「サバイバルナイフ」「爆弾」などをネット検索した人を、監視下に置くことは技術的には可能なのだ。

 我々にもっとも身近なのはSNSなど個人の発言に対しての監視だろう。実際、日本でも就職活動の際に企業の採用担当者の約4割が「応募者のSNSをチェックしている」と答えている(JOBRASS就活ニュース2016調べ)。将来「デモに参加する」とつぶやくだけで危険人物とされ、監視される可能性が出てくるのではないか?――こうした不安こそが監視社会が引き起こす「萎縮」だと外岡さんは指摘する。

「自分の情報が、誰にどう集められているかわからない。直接の圧力がなくても、萎縮して個人の発言が抑制される。言論の自由がなくなるということです」

「国家による監視は『支配するため』にほかならない」

『大量監視社会』の著者で、調査報道ジャーナリストの山本節子さんも警告する。ヒトラーはIBMドイツに開発させた「パンチカードマシン」に、教会や政府から集めたユダヤ人に関する情報を登録し、データベース化してユダヤ人をあぶり出した。

「日本が『戸籍法』で住民を把握し、徴兵を行った歴史は言うまでもありません。自分の情報を他人が握っているという怖さを、もっと自覚してほしい」

 土屋教授も言う。

「行き過ぎた監視をどう未然に防ぐか。行き過ぎた時にどうするか。私たち自身が考え、社会制度に取り込む必要がある。それは、政府に任せるのではなく、国民一人ひとりの判断に委ねられなければなりません」

 現代社会で自分の情報を守ることは容易ではない。いっぽうで安全のための「監視」をどう受け入れるのか、その選択も容易ではない。一人ひとりがどう考え、声をあげるかが問われている。

週刊朝日  2016年6月17日号より抜粋