レオナルド・ダ・ヴィンチ《糸巻きの聖母》1501年頃、バクルー・リビング・ヘリテージ・トラスト(c)The Buccleuch Living Heritage Trust
レオナルド・ダ・ヴィンチ《糸巻きの聖母》1501年頃、バクルー・リビング・ヘリテージ・トラスト(c)The Buccleuch Living Heritage Trust
ヤマザキマリさん(撮影/遠藤智宏)
ヤマザキマリさん(撮影/遠藤智宏)

 ボッティチェリ、ダ・ヴィンチ、カラヴァッジョ。日本イタリア国交150周年を迎える今春、ルネサンスを代表する画家の名作が続々と来日している。

 17歳で単身イタリア・フィレンツェに渡り、国立アカデミア美術学院で油絵と美術史を学んだ専門家で、ローマを舞台にした「テルマエ・ロマエ」の大ヒットでも知られる漫画家・ヤマザキマリさんが、レオナルド・ダ・ヴィンチの“変人”ぶりと、イチオシ来日作の楽しみ方を伝授します!

*  *  *

 ダ・ヴィンチは、“俺”っていう自我が作品に芽生えた、先駆け的な人物だと思います。

 画家が芸術家ではなくまだ職人のルネサンス初期に、世間のニーズに合わせることがなかった。人間謳歌主義の時代に、いやいや人間ってもっと不気味で醜いよ、という絵を描いたわけです。そこにはやはり、ダ・ヴィンチの幸福ではなかった子ども時代――田舎育ちで、母親もわからなくて孤独だったという卑屈なバックグラウンドが影響しているように私は思います。

 さらに、ダ・ヴィンチの性格を決定的に曲げてしまった要因は、“豪華王”ロレンツォ・ディ・メディチのアカデミーに呼ばれなかったということでしょう。ボッティチェリをはじめ、当時の優秀な人々があまねく集まるサロンに、若くして才能を発揮していたにもかかわらず、ダ・ヴィンチだけはそこに一度も呼ばれることがなかったのです。ちなみに、ボッティチェリは1472年に27歳でやっと、一人前の画家として親方組合に登録できたのですが、ダ・ヴィンチはその同年に20歳で登録されるほど優秀でした。

次のページ