一つには、朝廷も幕府も寺社も揉めないこと、武家も公家も僧侶も神官も争わないことである。3種の法度が「元和(げんな)偃武」の骨格なのは、これら日本社会のエリートが争うことを未然に防止する仕組みだったからだ。民主万能の現在では評判の悪い士農工商の身分制も、乱世を終わらせ秩序を再建するには不可欠だった。

 だが、秀吉という怪物が現に出現し、暴れ回った後の日本では、単に身分制秩序を整え、さらにその秩序の頂点に調和が保たれるだけでは不足である。能力のある者は、どれだけ上から抑えつけても、必ず頭角を現す。だいたい、秀吉の後の日本では、気の利いた者の目には血統原理の馬鹿馬鹿しさは、あまりに明らかではなかったか。

 これは言葉を変えれば、身分制と能力主義を同居させなくてはならないということでもある。言うは易し、行うは難し。「成り上がりめ」「親の七光りめ」と争うことは確実である。

 そこで家康は何をしたか?

 遠い未来を見据えて、武士たちに論語を読ませるようにした、というのが私の理解である。孔子は自ら「私は卑しい身分の生まれで、若い頃には様々な職を転々とした」と語っている。だが、そのような孔子の人格と識見に惹かれて弟子たちはどこまでもついていくし、王侯も取り敢えず会ってはくれる。血統の貴賎以外の論理が、論語には息づいていた。

 江戸時代が現代とよく似ていると感じるのは、この政策が根付き、成功した証しだと思う。

 家柄や財産は大事だが、能力と人柄も同じくらい大事。安定的でありながら流動的な日本の源流は、家康が孔子を、秀吉に対する「解毒剤」として採用したことにあった。

週刊朝日  2016年3月4日号